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中国共産党創立60周年  
建国いらいの党の若干の歴史的問題についての決議

 

(一七)この十年間、党の活動は指導方針の面に重大な失策があり、まがりくねった発展過程をたどった。

一九五七年は、経済活動の面で第八回党大会の正しい方針が真剣につらぬかれたため、建国後最良の成果をあげた年である。この年、全党で整風運動を起こし、党に対する批判や提案を大衆に出させたことは社会主義の民主を発揚するための正常な措置であった。だが、この整風の過程で、ごく少数のブルジョア右派分子がこの機に乗じて「大鳴、大放」なるものを鼓吹し、党と新生の社会主義制度をほしいままに攻撃し、共産党の指導に取ってかわろうとしたため、こうした攻撃に断固反撃を加えたこともまったく正しかったし、必要なことであった。だが、反右派闘争はひどく拡大化され、多数の知識分子、愛国人士や党内の幹部をまちがって「右派分子」ときめつけ、悲しむべき結果をもたらすことになった。

一九五八年、党の第八回全国代表大会第二回会議で採択された社会主義建設の総路線およびその基本点は、わが国の経済、文化の立ち遅れた状況を一変させようとする広範な人民大衆の切実な願いを反映している面では正しかった。だが、そこには客観的な経済法則を無視するという欠点もあった。この会議の前後、生産建設のなかで、全党の同志と全国各民族人民は高度の社会主義的積極性と創意性を発揮し、一定の成果をあげた。しかしながら、社会主義建設にたいする経験の不足や、経済発展の法則性と中国経済の基本状況にたいする認識不足があったほか、とくに毛沢東同志をはじめ、中央と地方の少なからぬ指導者が勝利にのぼせて、おごりたかぶり、功をあせり、主観的意志と主観的努力の作用を過大視し、着実な調査研究とモデルケースによるテストもおこなわず、総路線がうら出されるとすぐに軽率に「大躍進」運動と農村の人民公社化運動をおこしたため、高すぎる指標、デタラメな指揮、大ボラふきの風、「共産化の風」をおもな特徴とする左よりの誤りが大いにはん濫した。一九五八年の末から一九五九年七月の党中央政治局廬山会議の前期にいたる期間、毛沢東同志と党中央は全党を指導して、すでに気づいていた誤りの是正につとめた。だが、廬山会議の後期になると、毛沢東同志は彭徳懐同志にたいする批判を起こし、さらには全党で「右翼的偏向反対」の闘争をくりひろげるという誤りを犯した。「彭徳懐·黄克誠·張聞天·周小舟反党集団」にかんする八期八中総の決議は、完全に誤ったものであった。この闘争のため、政治面では中央から末端にいたる党内民主がひどく損なわれ、経済面では左よりの誤りを是正する過程が中断され、誤りがいっそう長びくことになった。主としては「大躍進」と「右翼的偏向反対」の誤りのため、さらに当時の自然災害やソ連政府の背信的な契約破棄も加わって、わが国の国民経済は一九五九年から一九六一年までひどい困難に見舞われ、国家と人民は大きな損害をこうむった。

一九六〇年の冬、党中央と毛沢東同志は農村工作における左よりの誤りの是正に取りかかるとともに、国民経済にたいし「調整、強化、充実、向上」の方針をとることに決め、劉少奇、周恩来、陳雲および鄧小平らの諸同志の主宰のもとで、ただちに一連の正しい政策と断固たる措置を決定、実施した。これはこの歴史的段階における重要な転換であった。一九六二年一月、七千人の参加する拡大中央工作会議では、「大躍進」における経験と教訓を一応総括し、批判と自己批判をくりひろげた。また、会議の前後に、「右翼的偏向反対」運動でまちがって批判された大多数の同志を再審査し、その名誉を回復した。そのほか、かつて「右派分子」ときめつけられた大多数のものから、そのレッテルをはぎ取った。経済、政治の面でこうした措置がとられたため、一九六二年から一九六六年まで、国民経済は比較的順調に回復し、発展した。

だが、左よりの誤りは、経済活動の指導思想の面では徹底的に是正されるにいたらず、政治、思想、文化の面ではむしろ深刻さを増した。一九六二年九月の八期十中総の席上、毛沢東同志は社会主義社会の一定範囲に存在する階級闘争を拡大化し、絶対化し、かれが一九五七年の反右派闘争後に提起した、プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾は依然としてわが国社会の主要な矛盾であるという観点を発展させ、社会主義の全歴史的段階にはブルジョアジーが存在し、復活をくわだて、党内に修正主義が発生する根源となるであろう、とまで断言するにいたった。一九六三年から一九六五年まで一部の農村と少数の都市の基層ですすめられた社会主義教育運動は、幹部の作風や経済管理などの問題を解決するにはたしかに一定の役割を果たした。だが、性質の異なるこれらの問題をすべて階級闘争、または階級闘争の党内における反映と見なしたため、一九六四年の後半には少なからぬ基層幹部に不当な打撃をあたえ、一九六五年のはじめにはまた運動の重点を「党内の資本主義の道をあゆむ実権派」への打撃に置くということをうち出す誤りを犯した。イデオロギーの領域でも、一部の文学·芸術作品や学術観点、さらには文学芸術界、学術界の一部代表者にたいして、まちがった、行きすぎた政治的批判をくわえ、知識分子の取扱いにたいする問題や教育、科学、文化の問題においても左の偏向がますますひどくなった。こうしたものが、のちに「文化大革命」の導火線となるわけである。ただし、当時はこうした誤りもまだ全局に影響をおよぼすにはいたらなかった。

一九六〇年の冬いらい、全党と全国各民族人民のおもな注意力が経済調整の正しい方針の貫徹に向けられたため、社会主義建設にはふたたび活気あふれる繁栄の気運が次第にみなぎるようになった。党と人民は一致団結して、苦楽をともにし、国内ではみずからの直面している困難を克服し、国外ではソ連指導グループからの圧力をはねのけ、ソ連にたいする債務の全額(主として抗米援朝戦争のさいの軍需品買付の借款)を返済するとともに、多くの国の人民の革命闘争と建設事業を全力をあげて支援した。一九六四年の末から一九六五年のはじめにかけて開かれた第三期全国人民代表大会では、国民経済調整の任務は基本的に達成され、国民経済全体は新たな発展の時期に入ろうとしていると宣言し、わが国を現代的農業、現代的工業、現代的国防、現代的科学技術をもつ社会主義の強国に一歩一歩きずきあげるため努力しようとの呼びかけがおこなわれた。だが、この呼びかけは「文化大革命」のために実現しなかったのである。

(一八)この十年間のすべての成果は、毛沢東同志をはじめとする党中央の集団指導のもとでかちとられたものである。この期間の活動における誤りも、その責任はやはり党中央の指導集団にある。毛沢東同志には主要な責任があるが、誤りのすべての責任を毛沢東同志ひとりに押しつけるわけにはいかない。この間、社会主義社会の階級闘争にかんする理論と実践の面で、毛沢東同志の誤りはますますひどくなった。毛沢東同志の独断専行の作風は党の民主集中制を次第に損なうようになり、個人崇拝の現象が一歩一歩と発展していった。だが、党中央はこうした誤りをいちはやく是正することができなかった。林彪、江青、康生らの野心家は、悪らつにもこうした誤りを利用し、助長した。こうして、「文化大革命」が起こされることになったのである。

 

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