一九三五年一月、党中央政治局は長征の途上、貴州省の遵義で会議をひらき、赤軍と党中央における毛沢東同志の指導的地位を確立した。これによって、赤軍と党中央はきわめて危険な状態からぬけ出すとともに、その後、張国燾の分裂主義にもうち勝ち、みごとに長征をなしとげて、中国革命の新たな局面を切りひらいたのである。これは、党の歴史上、その存亡にかかわる転機であった。
日本帝国主義がわが国にたいする侵略に拍車をかけ、わが民族が重大な危機に立たされたこの決定的時点にさいし、毛沢東同志をはじめとする党中央は正しい抗日民族統一戦線政策を決定して、これを実行にうつした。党は「一二·九」学生運動を指導し、内戦停止、抗日救国を要求する強大な大衆闘争をもりあげた。張学良、楊虎城両将軍が西安事変を起こし、わが党がその平和的解決をうながしたことは、国共の二度目の合作と団結抗日を促進する面で大きな歴史的役割を果たした。抗戦の時期において、国民党支配集団はひきつづき反共、反人民、消極的抗戦の姿勢をすてず、抗日戦の前線で敗退に敗退をかさねた。わが党は統一戦線における独立自主の政策を堅持し、広はんな人民大衆にしっかり依拠して、敵の後方における遊撃戦争を展開し、数多くの抗日根拠地を樹立した。赤軍を改編した八路軍と新四軍は、急速に発展して、抗戦の中堅勢力となった。東北抗日連合軍はひじょうに困難な状況のもとで戦いを堅持した。敵の占領地域と国民党支配区でも、さまざまな形の抗日闘争が幅広く展開された。こうして、中国人民の抗日戦争は八年間も堅持され、ソ連や他の国々の人民の反ファシスト戦争と呼応して最後の勝利をかちとることができたのである。
抗日戦争の時期、わが党は一九四二年から全党で整風というマルクス主義の思想教育運動をすすめ、大きな成果をおさめた。この土台のうえに、一九四五年、党の六期七中総で『若干の歴史的問題についての決議』を採択し、つづいて開かれた党の第七回全国代表大会では、歴史的経験を総括するとともに、新民主主義の新中国をうちたてるため正しい路線、方針、政策を決定し、こうして全党は思想、政治、組織の面でかつてみない統一と団結を実現した。抗日戦争の終結後、蔣介石政府はアメリカ帝国主義の援助にたよって、平和と民主を実現しようとするわが党と全国人民の正義の要求を拒否し、公然と全面的な内戦をひき起こした。全国各解放区人民の総力をあげた支援と国民党支配区の学生運動、労働運動と各階層人民の闘争の力づよい呼応、さらに各民主党派、無党派民主人士の積極的な協力のもとに、党は人民解放軍を指導して三年余にわたる解放戦争をすすめ、遼瀋、(遼寧·瀋陽)戦役、平津(北平·天津)戦役、淮海戦役の三大戦役と長江渡河作戦を経て、蔣介石軍八百万をせん滅し、国民党反動政府をくつがえして、偉大な中華人民共和国をうちたてた。中国人民は立ちあがったのである。
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