偉大な指導者毛主席は、王明に代表される右翼投降主義路線にたいして系統的な、徹底的な批判をくわえた。毛主席は一九三七年十一月、『上海、太原陥落後の抗日戦争の情勢と任務』という論文のなかで、王明の右翼投降主義についてつぎのように全党をいましめた。「一九二七年、陳独秀の投降主義は、当時の革命を失敗にみちびいた。共産党員の一人ひとりは、この歴史上の血の教訓をわすれてはならない」。毛主席は、プロレタリア階級とブルジョア階級が指導権を争奪する問題をふたたび提起し、プロレタリア階級の指導権を堅持しなければならず、「統一戦線のすべての活動は、独立自主の原則とかたく結びついたものでなければならない」と強調した。しかし、王明は毛主席の路線にさからい、ひきつづきその日和見主義路線をおしすすめた。一九三八年十月にひらかれた六期六中総において、毛主席は報告と結論のなかで、民族戦争における中国共産党の地位の問題を提起し、王明の日和見主義路線に反駁をくわえ、党が独立自主で武装闘争を指導する路線と政策を定めた。総会は毛主席の報告と結論を採択した。のちに、毛主席はまた、『政策について』なとの著作のなかで、統一戦線は「すべてのものと連合し、闘争を否定することでもなければ、すべてのものと闘争し、連合を否定することでもなく、連合と闘争の両側面を総合した政策である」とくりかえし全党を教育した。毛主席の革命路線が全党ですでに支配的地位をしめたことによって、また、王明の右翼投降主義路線を徹底的に批判するとともに、国民党との闘争であらわれた「左」の偏向を是正し、進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力を孤立させるという正しい方針を堅持し、反共頑迷派との闘争では矛盾を利用し、多数を獲得し、少数に反対し、各個に撃破することと、道理があり、有利であり、節度があるという原則を実行したことによって、わが党は国民党の一つまた一つの反共の高まりにうち勝って、抗日民族統一戦線の指導権をしっかりとにぎった。そして、外部からの援助のない状況のもとで、自力更生し、生産を発展させ、困難を克服して、中国を侵略した日本軍の大部分と、かいらい軍のほとんどぜんぶに抵抗·反撃し、八路軍、新四軍、華南抗日遊撃隊および各抗日根拠地を発展させ、強大にした。
毛沢東同志は党創立の初期から、党の思想建設をひじょうに重視していた。毛主席があらわした古田会議の決議および『実践論』、『矛盾論』などの哲学著作は全党の思想教育に大きな役割をはたした。四十年代の初期、全党のマルクス·レーニン主義の水準を高めるため、党中央は抗日戦争が対峙の段階にあるという絶好の時機をとらえて、全党の整風運動をくりひろげた。毛主席は、『われわれの学習を改革しよう』、『党の作風を整えよう』、『党八股に反対しよう」それに『延安の文学·芸術座談会における講話」など一連の整風文献を発表し、「主観主義に反対して学風を整え、セクト主義に反対して党風を整え、党八股に反対して文風を整える」よう全党によびかけた。「われわれの党、われわれの隊列は、その大部分が純潔であるとはいえ、革命運動がよりよく発展しよりはやく成功するようこれを指導するためには、思想の面も組織の面も、しんけんに整えなければならない。そして、組織の面を整えるためには、まず思想の面を整える必要があり、プロレタリア階級の非プロレタリア階級にたいする思想闘争をくりひろげる必要がある」と毛主席は指摘した。
毛主席がみずから指導した延安の整風運動は、偉大な、普遍的なマルクス主義の教育運動である。全党はマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作の学習、毛主席の著作の学習、弁証法的唯物論と史的唯物論の学習をつうじて、毎回の「左」翼と右翼の日和見主義路線の反マルクス·レーニン主義の実質をあばき、なにが正しい路線で、なにがあやまった路線かを見わけ、なにがプロレタリア思想でなにが非プロレタリア思想かを見わけ、大きな成果をあげた。整風のなかでは、前のあやまりを後のいましめとし、病をなおして人を救うという方針が実行された。全党の幹部は批判と自己批判をつうじてマルクス主義·レーニン主義·毛沢東思想の原則を基礎とする新たな団結に達した。
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