遵義会議は、わが党が幼年の党から成熟した党に向かった目じるしである。遵義会議ののち、偉大な指導者毛主席の指導のもとに、世にも名高い二万五千華里の長征は勝利のうちに完遂された。長征の途上、赤軍第一方面軍は北上抗日支隊を編成し、陜西省北部に進軍して、日本帝国主義の侵略に抗する全国人民の決意を鼓舞した。ついで、わが党はまた、別に中央をつくり赤軍を分裂させる張国燾の路線を粉砕した。一九三六年十月、第二、第四方面軍が陜西省北部につき、第一方面軍および陜西省北部の赤軍と勝利のうちに合流した。このとき、赤軍は三十万人から三万人たらずにへっていた。わが党の勢力は、量的には一時へったが、路線が正しいため、質的にはかえって以前よりいっそう強大になっていた。
一九三七年から、わが国の革命は抗日戦争の時期に入った。わが党は土地革命から抗日民族統一戦線への転換を勝利のうちに実現した。しかし、民族矛盾の上昇、国共両党の統一戦線の二回目の結成は、うしおのように一部の者をのぼせあがらせた。その党内への反映が、わが党の、王明に代表される右翼日和見主義路線にたいする闘争であった。
抗日戦争の初期、裏切り者王明は、極「左」から極右にとびうつった。王明は抗日民族統一戦線の結成を口実に、共産党を信用する以上に国民党を信用し、共産党の独立自主の原則を完全に解消し、いわゆる「すべては統一戦線を通じて」、「すべては統一戦線に従う」ということを提起した。これは実質的には、すべては国民党を通じ、すべては国民党に従い、国民党の反動政策とあくまで闘う勇気がなく、思いきって大衆を立ちあがらせる勇気がなく、思いきって革命の軍隊を発展させる勇気がなく、日本侵略軍の占領地区内で抗日根拠地を拡大する勇気がなく、抗日戦争の指導権を国民党に進呈してしまうものである。このように、王明はまたも一九二七年当時の陳独秀の「すべてのものと連合し、闘争を否定する」というあやまった路線に逆もどりした。この時期に、劉少奇は白色区から革命根拠地にやってきた。かれはうわべでは王明路線に反対し、毛主席の正しい路線を擁護し、自分を白色区での活動の正しい路線の代表だと吹聴し、その正体をおおいかくした。実際には、劉少奇ははやくから裏切り者、敵のまわし者、労働者階級の奸賊であり、かれが白色区でおしすすめたのは、完全にあやまった路線であった。かれのかつぎだした黒い『修養』は、まったく日本帝国主義を打倒することにはふれず、どのように国民党反動派とたたかうかということにはふれず、武力で国家権力を奪取することにはふれないで、共産党員に、偉大な革命の実践を離れて、孔子孟子の道とやらを学ばせ、観念論的「修養」とやらをやらせようとし、これまた投降主義の路線を鼓吹した。この時期にあらわれたいわゆる「国防文学」や「国防哲学」は、実際には売国文学であり、投降哲学である。それは王明の投降主義路線の産物であり、劉少奇の白色区での活動のあやまった路線の産物でもある。
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