毛主席は、「わが党の歴史は、わが党と国民党が統一戦線を結成している時期には、党内に右翼的傾向がうまれやすく、わが党と国民党が分裂している時期には、党内に『左』翼的傾向がうまれやすいことをしめしている」と指摘している。わが党が国民党と分裂し、陳独秀の右翼日和見主義路線を是正したあと、すぐにまた、一九二七年末から一九二八年はじめにかけての瞿秋白の「左」翼盲動主義路線、一九三〇年六月から九月にかけての李立三の「左」翼日和見主義路線、一九三一年から一九三四年にかけての王明の「左」翼日和見主義路線があらわれた。この時期には、陳独秀の解党主義、羅章竜の右翼分裂主義、およびその他革命に悲観失望する右の偏向があらわれたとはいえ、主としてこの三回の「左」翼日和見主義路線、とりわけ、四年の長きにわたって党内を支配した王明の「左」翼日和見主義路線の危害はきわめて大きく、その教訓もきわめて深刻なものであった。
一九三一年一月、王明は党の六期四中総で、党中央の指導権をかすめとった。王明はみずから「百パーセントのボリシェビキ」をもって任じ、「李立三路線反対」の旗じるしをかかげながらも、中央は「李立三路線の一貫した右翼日和見主義の理論と実際にたいして少しも摘発せず、打撃もくわえていない」などといい、「党内の当面のおもな危険は依然として右の偏向である」とし、実際には李立三路線よりもさらに「左」の日和見主義路線をおしすすめた。王明は、ほかの「左」翼日和見主義者とおなじように、中国革命の理論と実践がまったくわかっていなかった。かれらは、民主主義革命と社会主義革命の限界を混同していた。かれらは、労働者をしらず、農民をしらず、戦争をしらず、中国革命の不均衡性、曲折性、長期性をしらなかった。かれらは、中国の階級関係についてまったく調査もしなければ、研究もせず、中間派は「いちばん危険な敵である」などと鼓吹し、ブルジョア階級と上層小ブルジョア階級にはすべて反対することを主張した。かれらは、多くの「左」の政策を実行し、「すべてのものと闘争し、連合を否定した」。軍事路線では、まず冒険主義をおしすすめ、のちには体当たり主義と逃走主義に転じた。組織路線では、セクト主義を実行し、毛主席の職権を奪った。かれらのあやまった路線に賛成しない者にたいしては「無慈悲な闘争、容赦のない打撃」をくわえた。王明は法皇のように自分を党と人民の上におき、いたるところでそのあやまった路線をおしすすめた。その結果、わが党の勢力は、赤色区では九〇パーセントをうしない、白色区ではほとんど百パーセントをうしなって、赤軍は移動をよぎなくされ、長征をおこなった。
二つの路線、二つの結果は、正反両面から全党を教育した。毛主席の革命路線にしたがって、それまでなかった軍隊がうちたてられ、それまでなかった革命根拠地がきりひらかれた。ところが王明の「左」翼日和見主義路線にしたがったため、革命根拠地はうしなわれ、労農赤軍はきわめて危険な状態に追いこまれたのである。くりかえし革命の実践の検証をへて、毛主席の革命路線が唯一の正しい路線であることが立証された。「自分を中核だ」ときめこみ、「百パーセント」正しいと自任する王明は、もともとニセのマルクス主義者なのであった。一九三五年一月、赤軍が長征の途上、貴州省の遵義につくと、党中央の政治局拡大会議、すなわち偉大な歴史的意義をもつ遵義会議がひらかれた。この会議は、王明の「左」翼日和見主義路線の党中央における支配に終止符をうち、毛主席の全党における指導的地位を確立し、党の路線をマルクス·レーニン主義の正しい軌道にのせた。これは、どれほど多くの血をながし、どれほど大きな代価を払ってえられたものであろうか。
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