一九五七年のブルジョア右派に反対する闘争は、中国のプロレタリア階級とブルジョア階級とのあいだの政治戦線および思想戦線における大格闘であった。全国的範囲において、大いに見解をのべ、思うぞんぶん意見を発表し、大字報をはり、大弁論をおこなった。弁論された問題は、主に、われわれの革命と建設の活動が正しいかどうか、社会主義の道を歩むべきかどうか、共産党の指導が必要かどうか、プロレタリア階級独裁が必要かどうか、民主集中制が必要かどうか、それにわが国の外交政策が正しいかどうかなどの重要な問題であった。この大弁論によって、広はんな大衆は、敵と味方をみわけ、是と非をみわけ、ブルジョア右派を孤立させ、劉少奇の修正主義のデタラメな論調に反ばくをくわえ、プロレタリア階級の志気を大いに高め、ブルジョア階級の威風を大いにはらいおとして、全国人民の社会主義的積極性をこのうえなくわきたたせ、わが国の社会主義革命と社会主義建設の事業を大きくうながした。毛主席は一九五八年に、大いに意気ごみ、つねに高い目標をめざし、多く、はやく、りっぱに、むだなく社会主義を建設するという総路線をさだめた。この総路線は、毛主席が、革命根拠地を建設したわが党の経験を総括し、国民経済発展の第一次五ヵ年計画を実行した経験を総括し、フルシチョフによる資本主義復活の教訓を総括し、劉少奇一味の修正主義路線を批判して、くりかえし調査研究した基礎のうえにさだめられたものである。この総路線はプロレタリア階級の政治による統帥を前面におしだし、党の指導と広はんな人民大衆との結びつきを強調しており、それは党の大衆路線の新たな発展である。この総路線は、農業を基礎とし、工業を導き手とする方針を確定し、中央と地方の二つの積極性を発揮させ、沿海地方の工業を十分に利用し、内陸地方の工業の建設をはやめ、工業と農業を同時に発展させ、軽工業と重工業を同時に発展させ、在来のものと近代的なものを同時にとりいれ、大型、中型、小型のものを同時に建設するなどの、二本の足で歩くという体系だった方針を確定した。この総路線に導かれて、わが国人民は、農村で人民公社という組織形態をつくりあげた。全国の工農業生産には、熱気にあふれる大躍進の局面があらわれた。これは党の総路線の偉大な勝利である。
革命と建設が急速に前進しているすばらしい情勢のもとで、劉少奇一味は手口を変えてきた。かれらはまず極「左」の姿であらわれ、農村人民公社は社会主義の集団所有制であるという毛主席の正しい論断に反対し、価値法則を否定し、商品生産を否定し、革命的大衆運動を破壊した。毛主席はかれらのあやまりを時を移さず批判し、広はんな大衆の革命的積極性をまもり、具体的な措置をとって大衆運動を正しい軌道に導いた。一九五九年八月にひらかれた八期八中総では、彭徳懐がとびだしてきて、またも右の面から党の総路線に悪どい攻撃をくわえ、狂気のように大躍進と人民公社に反対し、革命的大衆運動に反対した。つづいて、劉少奇もたえず右の面から党の総路線を攻撃した。かれら一味は、三年の自然災害とソ修裏切り者集団が契約を破棄し、専門家をひきあげたことによってもたらされた一時的な経済困難を極力誇張し、全国人民が毛主席の指導のもとに党の総路線を堅持して困難にうちかつことができること、またすでにうちかちはじめていることを否定した。かれらは、「三自一包」(自由市場を発展させ、自留地を拡大し、自ら損益に責任を負う企業を多くし、農業生産の任務を一戸ごとにうけおわせること)と「三和一少」(帝国主義、修正主義、各国反動派と「融和」し、世界革命への支援を少なくすること)という対内対外の反革命修正主義路線を公然とうちだし、おしすすめた。かれらはもはや「赤旗」をかかげて赤旗に反対するのではなくて、白旗をかかげて赤旗に反対するまでになった。
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