主権喪失と国辱から独立自主へ
十九世紀中葉から二十世紀初葉にかけて、中国領土のほとんどは帝国主義の「勢力圏」となった。帝政ロシアは北部の五省、ドイツは山東、フランスは広西、広東、雲南、イギリスは長江流域の六省一市およびチベット、河南、広東の一部、日本は福建、台湾を占領した。アメリカは「門戸開放」を旗印に各列強の勢力圏内に「機会均等」の特権を獲得した。一八四五年から一九〇四年までの約六十年間に、中国の土地に三十余の租界が出現し、「国の中の国」の観を呈した。中国沿海の重要港湾には帝国主義国の国旗が掲げられ、帝国主義者は彼らの勢力圏内と租界で、政治、経済、軍事その他さまざまな特権を享有し、中国人民の人身の自由と民族の尊厳をかってに踏みにじり、上海フランス租界公園(いまの黄浦公園)の入口には、こともあろうに「中国人と犬は入るべからず」の看板が掲げられていた。
ポスター―輝かしい歴程、雄大な目標
中国の独立と解放を勝ち取るため、近代中国では、無数の志士仁人帝国主義勢力のすべての特権を廃止が決起して反抗し、活路をさがし求めた。しかしそのだれも中国に独立自主の道を歩ませることはできなかった。一九二一年七月一日に中国共産党が生まれ、幾億幾万の中国人民を指導し、二十八年にわたった困難に満ちた戦いを経て中華人民共和国を樹立し、それによってやっと中国に対する帝国主義の支配と圧迫を永遠に終わらせ、中国大陸におけろし、中華民族の完全な独立を実現した。
1965年の第3期全人代第1回会議で、中国を現代農業、現代工業、現代国防、現代科学·技術をもつ社会主義強国に築き上げることを提唱する周恩来総理
四分五裂から団結統一へ
一九一一年に清朝が覆されてのち、北洋軍閥と国民党が中国を支配した三十八年間、中国大陸はずっと大小軍閥の割拠するところとなり、真に統一されたことはいちどもなかった。北洋軍閥が統治していたころ皖(安徽)系軍閥の段祺瑞は安徽、陝西、山東、浙江、福建などの省を支配し、奉(瀋陽)系軍閥の張作霖は東北三省を支配し、直(河北)系軍閥の馮国璋、曹琨、呉佩孚らは江蘇、江西、湖北、河北などの省を支配し、滇(雲南)系軍閥は雲南、貴州を支配し、桂(広西)系軍閥は広東、広西、湖南を支配していた。国民党政府の統治時代、西南、西北、山西の各省は依然各派閥に支配され、中央政府の政令はこれらの地方には及ばなかった。封建軍閥は自分の統治区域内で独自に徴税し、通貨を発行し、兵員を募集し、関所を設けることができ、鉄道のレールの幅もそれぞれ違っていた。中国共産党が人民を率いて新中国を樹立した一九四九年に至って、中国大陸はようやく封建割拠の歴史に終止符を打ち、真の統一を実現した。
長年の戦乱から平和安定へ
帝国主義の侵略と封建軍閥の権益の争奪により、近代中国では戦乱が絶えず、一八四〇年から一九二六年までに、中国大陸で起きたわりに大規模な戦争だけでも三十五回あった。国民党統治下で、新軍閥の間でたたかわれた戦争はもっと頻繁で、一九二七年から一九三〇年までの三年余に大規模な軍閥混戦が七回も起き、戦争参加者は数百万人に達し、作戦区域は十数省に及んだ。戦乱を終えさせ、平和を勝ち取るため、大勢の善良な人々が奔走して停戦を呼びかけたが、戦争は激しくなるばかりだった。中国共産党が人民を指導して新民主主義革命の勝利を勝ち取ってはじめて中国大陸の戦乱は完全に終息し、百年ぶりに平和と社会の安定が実現した。
封建専制から人民民主主義へ
旧中国では、袁世凱から蔣介石までの数代の反動政府で、自らの政府が国民を代表し、民主を実行していると標榜しない政府は一つもなかった。だが、どの政府も真に人民に民主的な権利を与えたことはなく、選挙はかれらの弄した手練手管にすぎなかった。一九一三年、袁世凱は正式総統のポストに就こうとあせり、憲法制定を待ちきれずに選挙を強行した。選挙では、便衣の警官をくり出して投票所を包囲し、総統を選出しなければ議員が議場を離れることを許さないという厳戒の中で、午前八時から午後十時まで連続して三回も投票が行われ、やっと袁世凱が総統に選出された。一九二三年、直系軍閥の曹琨は総統の座にすわるため、一票に五千元ないし一万元出して議員を買収した。一般大衆にとっては、選挙権など話にならなかった。一九四八年四月に国民党のかいらい国民代表大会で正、副総統の選挙が行われたが、当時はそれが国民党政府で行われた最初の「民主選挙」であるといわれた。だが、「国民代表大会代表」たちは票をかき集めるためになぐり合いをし、『救国日報』をたたきこわすという事件すら起きた。一般大衆には選挙権などなかった。共産党が新中国を樹立してのち、普遍的な人民選挙が中国史上初めて実現した。新中国の憲法は何回も改正されたが、それは、満十八歳以上のすべての中国公民に選挙権と被選挙権があることを、いつも明確にうたっている。解放後、数回行われた全国人民代表大会代表の選挙で、投票率はいつも九七%以上に達した。人民大衆から選ばれた人民代表は、国家大事の討論に直接参加し、また自分の意思によって国と政府の各級指導者を選出し承認している。
打上げ準備中の「アジアサット1号」通信衛星を積んだ「長征3号」運搬ロケット
七%の耕地で二二%の人口を養う
旧中国は農業生産が振るわず、荒れ地がたえず増大した。ひとたび自然災害に見舞われると、餓死者があちこちにみられ、圧倒的多数の農民が飢餓にひんした。
新中国成立後、農業生産は着実に上向き、一九九〇年には、全国の食糧生産量は四億三千五百万ドル、一人当たり約三百八十三·五キロに達し、昔に比べ倍増した。綿花は四百四十七万トン、油料作物は千六百十五万トン、一人当たり十四·二キロ、肉類は二千五百四万トン、一人当たり二十二·〇九キロ、水産物は千二百十八万トン、一人当たり十·七四キロに達し、どれも三ないし十倍増えた。建国後四十年足らずで、新中国は世界のわずか七%の耕地で、世界の二二%以上を占める人口の食糧問題を解決し、圧倒的多数の人が衣食にこと欠かなくなり、かなり多くの人々がまずまずの生活を送れるようになった。
国力は四十年間に四十倍増
一九四九年には中国の社会総生産額は五百五十七億元、工農業総生産額は四百六十六億元、国民所得は三百五十八億元にすぎず、総合国力は世界の第十三位にランクされていたか、一九九〇年には、社会総生産額は三兆七千七百十八億元、工農業総生産額は二兆三干八百五十一億元、国民所得は一兆四千三百億元に達し、それぞれ四十年前より四十倍以上増え、総合国力は世界の第六位に上昇した。生産のたえまな“発展に伴い、人民の生活も著しく改善された。全国住民の実際の消費水準は一九五二年の一人当たり七十六元から一九九〇年には七百十三元に向上した。都市·農村住民の一人当たり預金残高は一九五二年の一·六元から一九九〇年の六百十七元に増えた。
1971年10月25日、国連総会は中華人民共和国のすべての合法的権利を回復する提案を採択した。写真は国連ビル前の中国の国旗
水害から水利へ
旧中国では、黄河、淮河の流域がよく水害に見舞われた。黄河は平均して十年ごとに堤防が決壊し、淮河は十四世紀から二十世紀までの六百五十年間に九百三十五回も氾濫した。このようにしきりに発生する水害を前に、勤労人民はどうすることもできず、しかも、支配者が「災害救助」の名目でかき集めるさまざまな収奪の犠牲となった。一九三八年六月に国民党政府が花園口で黄河の堤防を人為的に決壊させたときは、四十余の県が水びたしとなり、河南省内の民家百四十万余戸が押し流され、五十三万ヘクタールの耕地が冠水した。安徽、江蘇の両省で冠水した耕地は七十三万ヘクタールに達し、四百八十万人が住むところがなくなり、多くの人は故郷を離れて流浪の生活を送り、飢えと寒さのため多くの死者が出た。新中国成立後、共産党は人民を組織、指導して、黄河両岸で堤防の補強、ダムの修築、水力発電所の建設など、黄河に対する総合的治水を行った結果、建国後の四十年間、黄河は一度も氾濫しなかった。それと同時に、淮河流域の治水工事も行われ、わずか五年に基本的に完成した。それによって、淮河流域の六千万の人民は、数百年にわたって苦しめられてきた水害から初めて解放された。全流域の灌漑面積は五百三十三万ヘクタール、発電容量は三百五十万KWに達し、年間発電量は百八十億KWHを上回った。新中国成立後の四十年間にも自然災害はたびたび発生したが、昔のように人民が故郷を離れて流浪生活を送ることはなくなった。それどころか、党と政府は大量の物資や資金などで被災地を援助するとともに、被災者たちを組織して、生産による自助、故郷の再建をさせた。例えば、一九七六年に唐山大地震が発生したとき、中央人民政府は震災救助と唐山市の再建に二十五億元を特別支出した。
粗鋼生産は世界第四位に
旧中国の工業生産はひどく立ち遅れ、普通の釘でも外国から輸入しなければならなかったので、釘の前に「洋」をつけて「洋釘」というほどだった。一九四九年以前、中国の粗鋼生産量は世界の第二十六位で、わずか十五万八千トン。鋼材、原油とも長いこと輸入にたよっていた。
新中国成立後、四十年の建設と発展を経て、中国は、各部門の完備した独自の工業体系を確立し、かなり充実した工業基礎を打ち建てた。一九五〇年から一九八八年までに、全人民所有制工業固定資産への国家投資額は一兆元余りに達した。工業生産額の社会総生産額に占める比重は、一九八八年には六一%に達した。国際的に通用する工業業種の分類から見ても、建設中の原子力発電工業を除く五百余りの工業業種が確立され、昨年の粗鋼生産量は世界第四位の六千六百四万トン、原炭は世界第一位の十億八千万トン、原油は世界第五位の一億三千八百万トン、発電量は世界第四位の六千百八十億KWHに達した。そのうち、鋼材と原油は国内建設の需要に満たしているだけでなく、一部は輸出されている。
四通八達の交通
旧中国の交通·運輸業の発展は緩慢で、一八七六年に呉淞鉄道が建設されてから一九四八年までに、わずか二万千三十六キロの鉄道しか建設されなかった。「天府の国」といわれる四川省には、一寸の鉄道もなかった。チベット高原にも道路らしい道路はなく、イギリス人がダライ·ラマに贈った自動車も、ばらばらに分解し牛に積んでラサに運んだほどだった。一九四九年の全国の鉄道は二万千八百キロ、道路は八万七百キロ、郵便路は全長七十万六千キロにすぎなかった。
四十年にわたった建設によって、北京は近代都市へと変貌した。写真上は復興門外の新しいビル群。下は解放前の復興門外
新中国の四十年の建設を経て、一九八八年には鉄道の営業距離は五万二千八百キロ、道路の長さは九十九万九千六百キロ、河川航路は十万九千四百キロ、民間航空の航空路線は三十七万三千八百キロ、国際航空路線は十二万八千三百キロに達し、郵便路は全長五百余万キロに増えた。現在、中国ではチベット自治区を除く各省に鉄道が走り、各県に道路が開通し、各省の省都には空港ができ、それらは世界の各大都市と直接通信することができる。
学童の入学率二〇%から九七·九%へ
旧中国の教育事業はひどく立ち遅れ、全国人口の八〇%以上が文盲で、学齢児童の入学率は二〇%そこそこだった。勤労人民で学校に入って勉強する者はきわめて少なかった。国民党が支配した一九一二年から四八年までの三十六年間に、大学·高専を卒業した者は二十一万八百人にすぎなかった。
新中国成立後の四十年間(一九四九~一九八八)に、全国の普通大学·高専の本科·専科卒業生は計六百十九万二千人、大学院生は十五万四千人、中等専門学校の卒業生は九百六十九万八千人、成人大学·高専と成人中等専門学校の卒業生は千三百七十九万五千人、中高級の専門人材は計二千九百六十八万九千人に達した。一九八八年の全国の大学は千七十五校、在学生は二百六万六千人、中等専門学校は四千二十二校、在校生は二百五万二千人、普通中学校は九万一千四百九十二校、在校生は四千七百六十一万五千人、小学校は七十九万三千二百六十一校、在校生は一億二千五百三十五万八千人であった。学齢児童の入学率は一九九〇年に九七·九%に達し、初等教育は基本的に普及した。
ピンポンボールの輸入から衛星の代理打ち上げへ
近代において、中国の科学技術水準は世界の先進国と比べはるかに立ち遅れ、解放前はピンポンボールすら輸入しなければならなかった。旧中国最大の全国的総合国立科学研究機関であった中央研究院の各種研究スタッフは、一九三一年には百二十九人しかおらず、一九四八年でも、百九十七人に増えただけだった。
新中国成立後、中国の科学技術陣はたえず増大し、一九九〇年末には県以上の全人民所有制の独立した科学研究·技術開発機関は五千八百二十ヵ所となり、全国の各種専門科学技術者は二千四百三十二万人となった。一九六四年十月、中国は最初の原爆実験に成功し、一九六五年九月には世界で初めてインシュリンの人工合成に成功し、一九八一年十一月には、まっ先に酵素アラニン転移RNA(リボ核酸)の人工合成をなしとげた。また、一九七〇年から一九九〇年までに、各種の人工衛星三十個の打ち上げに成功し、一九八一年には一つの運搬ロケットで三個の人工衛星を打ち上げるのに成功、ソ連、アメリカ、フランスに次いで、一つのロケットで多数の衛星を打ち上げる技術を身につけた四番目の国となった。世界にその名をとどろかした北京プラス·マイナス電子衝突装置の研究·開発や、国産材料を利用して自分で設計した、一秒ベクトル演算一億回の「銀河」大型コンピューターの研究·開発にも成功した。一九九〇年四月には、外国のための衛星打上げを開始し、原子力技術と宇宙空間の技術を身につけた世界で五番目の国となった。
趙克功氏の開発した超精密構造レーザー·スペクトルアナライザーは中国の計量水準を世界の先進レベルに仲間入りさせ、国家自然科学賞を受賞した
平均寿命三十五歳から七十歳へ
旧中国では、衛生機関と衛生技術要員は数も少なく、レベルも低かった。一九四九年、全中国で衛生機関はわずか三千六百七十個所、病院のベッド数は八万五千床で、衛生技術要員は五十万五千人しかいなかった。医者も薬も少なかったため、人民の健康は保障されず、死亡率は約二·五%に達し、平均寿命はわずか三十五歳で、世界でも平均寿命の最も短い国の一つであった。
新中国成立後、医療衛生事業は速いテンポで発展し、一九八八年には、全国の衛生機関は二十万五千九百八十八個所、病院のベッド数は二百七十九万五千床、衛生技術要員は三百七十二万四千人にそれぞれ増え、死亡率は〇·六七%に下がり、平均寿命は七十歳に伸びた。解放前広範に流行し、なかなか抑制できなかったコレラ、ペスト、天然痘、回帰熱、発疹チフス、黒熱病などの急性伝染病は基本的に根絶し、住血吸虫病、マラリア、地方的な甲状線腫瘍、克山病およびカシン·ベック病などの流行は一応抑えられ、計画免疫活動がしだいに普及して、中国人民の健康水準は著しく向上した。
「アジアの病人」から目覚めた巨人へ
旧中国には体育科学研究所もなければ体育学院もなく、体育専門学校が数校あっただけで、選手等級制度も体育鍛練の基準もなかった。一九四九年以前には、スポーツ専用地は全部で四千余個所しかなかった。
旧中国では、国際的スポーツ交流に参加したことは非常に少なく、国際競技大会で優勝したり、世界記録を破ったことも一度もなかった。一九二八年から一九四八年までにオリンピックに四回参加したが、参加者数は最も多い時でも八十人にすぎず、成績はいつも「ゼロ」で、予選で敗退したものだ。外国の世論は中国人を「アジアの病人」とけなしていた。
一九四九年の新中国成立から一九八八年までに、体育科学研究所は三十五個所設けられ、科学技術研究要員は千五百人余に達した。体育学院は十五校となり、これまでに延べ十二万六千八百十人の選手が各種国際体育交流に参加し、世界選手権大会で三百九十二回も優勝し、三百八十五回も世界記録を破り、あるいは樹立した。一九八四年のロス五輪には、三百五十三人からなる選手団が出場し、「ゼロ」の記録を打破して金メダル十五個を獲得した。世界の人々は中国の体育事業の発展と進歩にショックを受け、中国を[目ざめた巨人」と称賛した。
「人工種子」の開発に成功した上海復旦大学の沈大棱助教授
画期的な飛躍
旧中国では、支配者が民族的抑圧と差別政策をおし進めたため、少数民族地区は貧しく、立ち遅れてしまった。一部の少数民族は、粗放な焼畑農法や「結縄記事」(縄を結んで事物を記録すること)といった原始社会にとどまっていた。
雲南省元江県の農村風景
新中国成立後、共産党の指導のもとに、少数民族人民は政治的に完全に解放され、どの民族も、国家の最高権力機関である全国人民代表大会に自民族の代表を送り込んでいる。第七期全国人民代表大会では、少数民族代表が一五%を占めている。また、国は民族学院、民族幹部学校、民族訓練班などを設け、百万人余りの少数民族幹部を養成した。これまで定住の場所をもたなかった少数民族がいまでは自らの自治州や自治県をもつようになった。一九八八年現在、中国には五つの民族自治区、三十の自治州、百十五の自治県(旗)がある。少数民族地区の経済建設も画期的な飛躍をとげた。一九五〇年から一九八八年までに、国が少数民族地区の基本建設に投じた資金総額は千四百十六億九千万元に達した。それによって、荒涼とした草原や砂漠に近代的な包頭鋼鉄公司、カラマイ石油工業基地など多くの大中型工業プロジェクトが建設された。交通運輸状況も大いに改善された。かつて自動車道路の一本もなかったチベットでも、いまではすべての県にそれが建設され、総延長は二万一千八百キロにのぼり、七七%の郷にバスが走り、どの県、どの郷でも郵便、通信が可能となった。十七世紀の清朝からチベット平和解放前夜(一九五一年)までの三百年間に、チベットの人口は半分以上減り、百二十万平方キロの土地に、わずか百万人しか生存せず、そのうちの九〇%以上がいつも衣食に事欠く農奴や奴隷であった。いまでは、チベットの大多数の人々の衣食の問題が解決され、人口は二百十九万六千人に増えた。
連戦連敗から不可侵の国へ
旧中国の国防は、侵略者の軍靴をこばむことができなかった。一八四〇年から一九三七年までに、外国の列強は七回もほしいままに中国を侵略し、中国軍は連戦連敗した。一八九四年の甲午戦争(日清戦争)後、一万八千余キロにのぼる大陸の海岸線に、中国の軍港は一つもなくなりた。一九三一年から三五年までに、蔣介石は百万もの軍隊を繰り出して中国共産党の指導下にあった数万の工農赤軍と革命根拠地を包囲、討伐したが、一方、日本軍に東北と華北の広大な国土をほしいままに強奪された。
吟味しながら農具を買い求めているチベット族の農民
新中国の成立は、外国侵略者が中国をほしいままに踏みにじり、それに干渉する歴史に終止符を打った。四十余年来、中国人民解放軍は反侵略の闘争の中で、次々と侵略者に厳しい懲罰を加え、歴史的な屈辱をすすぎ、中国の民族独立と領土の安全を守り、侵すことのできない「鋼鉄の長城」となった。
党の十一期三中総以来、農村経済の発展はめざましく、農民の収入も増え、生活は大きく改善された。写真上は遊んでいる北京郊外区の農民幼稚園の園児たち。下は、一九四九年の解放前、自分の子供を売っている農民
社会のどん底から「天の半分を支える」まで
旧中国では、広範な勤労婦人は、政権、族権、神権、夫権という四つの封建的宗法制度の圧迫を受けて社会のどん底で苦しみ、生存の権利、人身の自由すらなかった。北洋軍閥政権から蔣介石政権に至るまで、真に男女平等を保障する法律は一つも公布されたことはなかった。工場では、女性労働者の賃金は男性労働者のそれより低いのが普通で、労働時間は十二時間ないし十八時間にも達し、多くの機関では、既婚婦人は採用しないという規定を公然と設けていた。重慶にあった十九の国民党政府機関の一九四五年統計によれば、女性職員は全体の四·六%にすぎなかった。
上海の百歳を超えたある老夫婦の生活のひとこま
新中国になって、女性の地位は根本的に変わった。人民政府が発布した『憲法』は、政治、経済、文化、教育、社会、家庭などの各面で女性が男性と平等の権利を享有することを明文で保障し、婦人を束縛する封建的制度を廃止した。工場では、男女同一労働·同一賃金が実行され、しかも女性労働者は規定の産休がとれ、給料ももらえる。発達した資本主義国でもここまでは進んでいる国は少ない。わが国の女性従業員は一九四九年の六十余万人から一九八四年には四千二百万余人に増え、従業員総数の三六·五%を占めた。一九五三年に行われた最初の末端組織選挙は、わが国の婦人が史上初めて選挙権を行使したものであったが、女性公民総数の九〇%以上が投票に参加し、選出された各級人民代表の約一七%を女性が占めた。一九五六年の第二回末端選挙で当選した婦人代表の比率は二〇·三%に、一九八七年の第七期全国人民代表大会の婦人代表の比率は二一·三%にそれぞれ伸びた。各級人民政府の中でも婦人幹部はかなりの比率を占めている。新中国の婦人は「天の半分を支える」と言われている。
中国人民は立ちあがった
旧中国は国際的な分割の対象でしかなかった。帝国主義列強は中国政府を無視して中国の領土を分割し、中国の権益を割譲させた。第一次世界大戦後、中国政府の代表は戦勝国としてパリ講和会議に出席した。しかし、たんに会議への列席を認められ、しかも、権益を放棄する国辱的な条約への調印を帝国主義列強から押し付けられただけだった。一八四二年から一九一九年まで、イギリス、日本、帝政ロシア、フランス、ドイツ、アメリカなど十二カ国から調印を迫られた不平等条約は七百九件にも達した。
新中国成立後、すべての不平等条約は廃止され、いかなる外国からの圧力にも屈服せず、いかなる大国の勢力にも片寄らない独立自主の外交方針を堅持してきた。わが国は前後してイギリス、ボルトガルの両国政府と協議して香港、澳門(マカオ)の主権の中国復帰問題を解決した。現在、わが国は百三十余りの国と外交関係を樹立し、百八十余りの国·地域と平等互恵の経済貿易関係を結んでいる。中国は国連安保理の五常任理事国の一員として、国際事務の中で重要な役割を果たしており、国際的影響と声望はますます大きくなり、国際的地位も日ましに高まっている。中国は世界の平和と安定の擁護に欠かせない要素であると多くの国の政治家から見なされている。
以上述べたことは、世人のよく知っている一部の例に過ぎないが、これらの事実をずらりと並べて見ると、中国で天地を覆すほどの変化が起きたことは間違いない。これらの変化を実現させた中国共産党の功罪是非も、これによって一目りょう然ではないたろうか。
(筆者は中共中央党史研究室研究員)
「北京週報日本語版」1991年7月2日(No.26)