北京大学を出た1人の英語教師が中国の改革・開放の波に乗って浮き沈みしつつ、今では民間の英語教育分野におけるリーダーの1人となり、広範な若者たちに「人生の教師」と呼ばれるまでになった。その人は新東方教育技術有限公司(株)の創始者である兪敏洪さんだ。
死地に活路を
長江の水を飲みながら育った兪敏洪さんは、江蘇省の江陰という地方独特の気質を持っている。彼の言葉を借りれば、「南方人の“柔”の一面と北方人の“剛”の一面を兼ね備え、大まかなようで細かいところに気がつき、さっぱりして度量が大きく、忍耐心が強く、情を重んじるオープンな気性」だというのだ。こうした気性だけに、何度か失敗もしたが、少しも落胆せず、今日までやってこられたというわけだ。3度目の大学受験に挑戦した1980年に、やっと名門の北京大学英語学部に受かった。卒業した1985年のころは、折よく北京大でオフィシャル英語が多くの教師を必要としたため、北京大での静かな生活が気に入っていた兪敏洪さんは英語教師として大学に残り、一週間に8コマの授業に出るほど忙しい教師としての人生が始まった。
1991年、留学の学費を稼ぐために学校の規定に違反して、勝手に外で授業を兼任したことで、大学側から過失として記録に残され、やむなく北京大での仕事を辞めた。2年後、留学予備学校の「北京市新東方学校」(以下「新東方」)を創設し、校長に就任すると同時に、自ら授業をし、平均して1日に10時間も授業を受け持ち、最も多い時は16時間にも達した。学校創設の初期には、学生はわずか数十人だけだったが、06年上半期現在、新東方はすでに全国の24都市に25の学校、111の学習センター、13の直営書店を有し、教師の数は1700人となり、兪敏洪さんは「留学のゴッドファーザー」とも讃えられている。農民の子供から、糊を片手に大通りや路地を歩き回って学生募集広告を貼る日々へ、さらには世界でも有名な英語教育機関の「ゴッドファーザー」になるまで、兪敏洪さんは「自分の成功は国の改革・開放政策と切り離せないもので、この政策が私により大きな生存のスペースを与えてくれた」と考えている。また、「留学の波が全国の経済と政治の改革・開放に従って高まり、政府のサポートと奨励があったため、中国の学生は国外へ留学することができただけでなく、面目を立てて帰国することができ、私の英語教育にも市場が提供されることになった。そして、この時代がますます寛容になり、いっそう開放されたため、自分のやりたい教育という理想を達成することができた」とも言う。
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