本誌記者 陳ラン
今年53歳の徐二琪さんは北京の老舗靴店「内聯昇」の職人だ。1972年3月に中学を卒業して、ここの生産現場の第一線に配属され、今では全工場で最もキャリアの長い師匠となり、同僚らから「靴王」と敬われている。
徐さんの仕事は靴の表と靴底を縫い付ける仕事で、内聯昇に代々伝わる手作り布靴の90余りの技巧の1つだ。ちょっと目には簡単な仕事のように見えるが極めて高い技術が要求される仕事で、少しでも気を抜くとそれまでのすべての努力がムダになってしまう。手作りの全過程を通じて職人は必ず、靴の表面に木型をぴったりつけ、ピンと張って形を整えていかなければならない。また、縫い付ける際の針目はきちんと揃い、靴底と靴の本体はしっかり結合させるとともに、ふくらみも持たせなけばならず、靴の表面は対称で綴じ目や糸切れが見えてはならない。
「弟子入りしたときはまだ17歳にもなっていなかった。毎日8時間、他のことは一切やらせてもらえず、基本の技術だけ鍛錬させられた。当時は、農村に行かなくていいなら、おとなしく労働者になろうと思っただけ」と徐さんは振り返る。
師匠の教えを実直に守ったほか、彼は仕事の効率をあげる方法を一人で模索した。たとえば、靴底を縫う際に力を省くため、人に頼んでネジ回しを扁平にしたうえで曲げてもらった。
2年の弟子の期間が終わり、徐さんは80名余の同期生とともに正式な職人となった。
衰退から再生へ
改革開放の初期は、ほとんどの業種においてその発展の勢いは好ましいものだったが、ハンドメイドの布靴製造業は、革靴の急激な躍進に押されて次第に衰退していった。
「革靴は機械で大量生産される。でも、私らの布靴は完全な手作りで、1日に2足作れるだけ。まったく比べようもない」と徐さんは言う。
最終的に彼がここに留まった理由は、この仕事に対する情熱のほかに、彼の伴侶もここで仕事していたからだ。1985年、30歳の彼は4歳年下の検査係の同僚と所帯を持った。
90年代中ごろになると、布靴の業界は復活の兆しを見せ始めた。徐さんは職場をしっかり守ると同時に弟子を取り始めた。月給も弟子の時期の17.08元から700元へと上がった。最も景気の良いときには、同業者から席をあけて待っていると引き抜きのラブコールを送られたことまであった。
一緒に就職した同僚では彼を含めて3人だけが今もここで仕事している。「実を言うと、転職しなかったのは“面倒くさがり屋”だからなんだ」と笑いながら徐さんは言う。「初めての仕事より、よく分かっている仕事のほうがいい。何と言ってもこんなに長くいれば情も湧いてくる。割と伸び伸びと仕事できる環境だし、同僚との付き合いも楽しい」と彼は話してくれた。
「靴王」の新しい靴
1853年に創立し、清末期の皇室や役人専用に手作りの靴を提供し続けてきた老舗の内聯昇も、2001年には株式制改革を敢行して株式会社となり、100名余の従業員は会社の株主となった。
「当時は“株式制”なんて分からず、年末に多めにお金がもらえればそれでよかった」という徐さんの考え方はとても素朴だが、従業員の本音を最もよく反映していた。
数年間の実践で改革の効果が表れ始め、月給は2000元余りに上がったと徐さんは言う。新年や祭日のたびにボーナスや現物支給品が贈られ、年末には配当があるという。このほか、職場のちょっとした変化にも温もりを感じると彼は言う。たとえば、仕事場の扇風機はエアコンに変わり、以前は長い間支給されなかった作業服が今では毎年数着も支給され、さらに以前は家から弁当を持ってきていたが、今では栄養のある昼食が提供されるという具合で、従業員はさまざまなメカニズムを通じて自分の意見や提案を発表できるようになった。
企業の制度改革という問題のほか内聯昇は、すべての老舗に共通するもう1つの問題にも直面していた。技術の伝承と市場化をいかに両立させていくかという問題だ。
「昔ながらの北京の伝統に従うなら、以前は靴底には古布を用いていたので、靴底が硬かった。でも、今はすべて新しい布に改め、履き心地をよくし、市場のニーズに合わせている。ここ数年で社内にデザイン部門ができ、底に牛皮を使ったカジュアルシューズやファッション性の高い布靴など新商品の開発を受け持っている。素晴らしいアイデアでも、実現するには問題が多いこともある。肝心なことは、意志の疎通と協力だ。たとえば、彼らがデザインした布サンダルは、色やデザインはとてもいいが、サンダルは普通の布靴のように足の甲全体を覆わないことが最大の問題で、私らは靴底を縫い付ける際の技術を改良し、最大の努力をしてそのデザインを実現しなければならない」と徐さんは語った。
徐さんが最も誇りとしているのは、特技を活かして故郷に贈り物をしたことだ。彼の発案でほかの3名の同僚とともに製作した「五輪ハッピー布靴」が、オリンピックを1年後に控えたカウントダウンの際に完成したのだ。それは、手作りの靴底に5つの輪を刺繍したうえ、靴の表面には五輪大会のエンブレムを刺繍したものだった。
これを製作した最初の動機に話が及ぶと、「ただオリンピックのために何かしたかっただけ」と彼は答えた。
あと2年で徐さんは定年退職となるが、彼は技術の伝承問題については心配していないと言う。「今いる数人の弟子はみな若く、80年代以降に生まれ者もいるが、みな素直だし、前向きに学んでいる。私が弟子だったころは師匠がとても厳しく、何か問題があると靴、道具もろとも放り出されたものだ。今は時代が変わって、彼らが受け入れられる口調や態度で教えるよう、やり方に注意している。自分の子どもと同じように扱ってるんだ」と彼は語る。
退職後の生活まではまだ考えていないという徐さんは、ただ、きちんと暮らしていけて、花の手入れをしたり鳥や虫を飼ったりして好きなことがやっていければいいという。
「北京週報日本語版」2008年12月2日
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