本誌記者 呂 翎
今年54歳の黄慶憲さんは、かつて江蘇省丹陽市商業局の副局長を務め、現在は400名余の部下を抱える江蘇省丹陽商業広場有限公司の代表取締役社長。同公司は地元で有名な小売企業だ。その黄さんは「改革開放は私に舞台を与えてくれ、自分の才能を伸ばす機会を与えてくれた。一介の倉庫の管理員から企業の管理者へ、公務員から民営企業の経営者へと、この期間に経験したことは、30年前には想像もしなかったことだ」と語る。
計画経済から市場経済へ
1971年、高校を卒業したばかりの黄さんは国営百貨店の倉庫管理員として就職した。当時のあらゆる国営企業の職員と同様に、彼は、この7年後の中国共産党第11期三中全会が自国の未来の発展にどのようなチャンスとチャレンジをもたらすのか、知る由もなかった。「当時の月給は数十元ほど。1980年になってやっと31元5角になった」と笑いながら振り返る黄さんは、当時のことをまだ鮮明に記憶している。「倉庫の管理員、入出荷伝票発行係をやったあと、班長、主任になった。当時はまだ“マネージャー”という言い方は流行っていなかった。“主任”というのは今の“マネージャー”、“部門マネージャー”に当たる役職」と彼は説明してくれた。
計画経済体制下での国営商店の管理は経営者らにとって決して複雑なことではなかった、と彼は言う。統一された仕入れルートと価格、それにライバルのいないことで、経営者らは国営商店の店頭に商品を無事に置きさえすれば事足りた。だが、80年代に入ると雨後の筍(たけのこ)のように私営の小店舗が出現、従来の国営商店は有力なライバルを持つことになる。人々は依然として国営商店の商品の質を信じてはいたものの、私営小店舗の柔軟な価格設定や融通無碍な商品供給ルートが私営店勃興の武器となった。これが国営商店の販売額と利益に影響するのは避けがたいことだった。
黄さんの記憶の中で、改革開放が彼の仕事と生活に極めて大きな影響を与えたと心底感じたのは、80年代末から90年代初めだったという。この数年間に、経済体制の改革がこの南の小都市にまで及び始めたのだ。国営商店が大きく赤字となる状況のもとで、もともと全市の商業系統を主管していた商業局が、百貨店、砂糖・煙草・酒関連企業、金属・電気機械・化学工業関連企業などいくつかの大型国有企業を多くの小企業に解体した。「当初、政府が打ち出したのは“小さな船は方向転換しやすい”という方針、政策だった。今になって見ると、国営企業のすべての利益を財政に吸い上げ、企業の発展のためには再び財政から割り当ててサポートするというパターンは、1980年代末の中国にはすでに合わなくなってしまっていた」と黄さんは言う。
1993年、黄さんは新たに設立された紡績品総公司を引き継ぐ。これは元の百貨店系統の中から分離した小企業で、営業面積1200㎡の小売店と170名余の従業員の受け皿となるものだった。「実は初めのうち、私たち管理者全員は不満を抱いていた。長期的な赤字のために、新たに引き継いだこの企業は実際には債務超過のうえ、90名を超す退職者の手当てという負担も抱えていたからだ。だが、改革がもたらしてくれた良い点は、統一的な国の規定に基づく仕入れルートに頼らなくてもよくなり、利益配分のうえで企業が一定の自主権を持ったことで、このため新しく生まれた企業の発展に確実な基礎を固めることができた。当時の私たちは、必ず、元の百貨店よりもすばらしく、より強くしなければならないと思った」と黄さんは振り返る。
改革されたほとんどの国営商店と同様に、黄さんの紡績品総公司も店頭別請負制、定員持ち場制、作業指標制といったより融通性のある経営の道を歩み始めた。さらに、利益に対しては店頭ごとに計算し、統一的に管理することで従業員の待遇を引き上げ、仕事に対する積極性を高めた。1996年まで、黄さんと現地では決して大きくはない彼のこの小売企業は粘り強く生き残ったうえ、9000㎡の大型商業施設を擁する丹陽商業広場の建設を計画するところまで漕ぎつけた。
公務員から私営企業主へ
「私にとってさらに大きなチャレンジは2000年の企業株式制改革の試行で、私はこれによって国営企業の管理者、公務員から私営企業主への転身を果たした」と黄さんは言う。1998年、東南アジア金融危機の影響が中国に波及し、全市の小売企業に大きな欠損が生じ、彼が経営する商業広場有限公司も収益はまあまあだったが、巨額の債務圧力に直面することになった。
「当時、政府は国有資産を全面的に小売業から引き上げることを決定し、さらにそれらの企業の管理者層である私たちが引き継ぐことを望んだ。2000年には、私たちの企業はまだ4000万元の債務を負うと同時に、1000万の流動資産ローン、500名以上の従業員と100名近い退職者の給料、それに加えて店舗全体の運営を維持していくための水道光熱費などを保証しなければならず、いずれも大きな圧力となった」と黄さんは言う。
さらに黄さんは次のように話してくれた。「当時、私はもう市商業局の副局長になっていた。引き継ぐということは、この数千万の債務が国から私自身の頭上へとのしかかってくることを意味していた。この決定を行うときには、激しい心理的な葛藤が止むことはなかった。固定給のある公務員として、そんなに大きなリスクを冒してまで、巨額の債務を抱えた会社を独力で経営する必要があるのか、と多くの人が助言した。もし、改革開放の初期に引き継げと言われていたなら、私はきっとそんなに大きな気概はなかっただろう。たとえ引き継いだとしても、心理的に落ち着かなかったはずだ。だが、十数年の間に周りのすべてが変わった。このことは私が徐々に適応していくプロセスを与えてもくれた。しかも、行政的な幹部としてではなく、私の性格から言っても企業を経営するのはなおさら好きなことだった。一企業家となることは一貫して私の人生における目標だった。だから、私は転職して私個人の能力に頼って自分の人生の価値を実現することを試してみようと決意した」。
政府の評価・計算を経て、マイナス資産300万元余の丹陽商業広場有限公司は株式制改革を達成し、黄さんとその他の管理者層、中間幹部層が会社の株式を買い上げた。黄さんは51%の株式を取得して代表取締役社長となり、会社は28人の株主を抱え、6%の株式が企業の褒章用株式として残された。
今や社長となった黄さんは、決して前進する歩みを止めようとはしない。彼にとって、初めに投入したものはすでに見返りがあったのかもしれないが、商売にはチャンスとチャレンジがつきものだ。「この2年間で海外の小売企業が中国に進出し始め、中国の小売企業はまた新たな試練と競争圧力に直面している。私たちは多元化という発展の道を歩んでこそ、競争の中で自らを大きくすることができる。でも、この道をどのように歩むべきか、私はまだ決めていない。すでに54歳になったが、私の人生における価値と目標は依然としてまだ先のほうにあり、私がそれを実現するのを待っている」と彼は締めくくった。
「北京週報日本語版」2008年11月20日
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