▽「中国製品イコール低級品」
王泰平氏、1941年生まれ、元駐日本大阪中国総領事(大使級)。日本への赴任歴は6回、合わせて22年に及ぶ。中日間を数十年にわたって往復した自らの体験を振り返ると、青海原が桑畑になってしまうほどの世の移り変わりの激しさについて、ただただ感嘆の念に堪えないという。新華社のウェブサイト「新華網」が伝えた。
年若き王氏が記者として日本に初めて赴任したのは1969年、中日間の国交はまだ無かった頃だ。当時の中国は「文革」の最中にあり、物資が欠乏し、深刻な衣食問題を抱えていた。一方、日本は経済急成長時代にあった。王氏は日本で、商品の充足と市場の活況を見た。電気冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビ、音響製品、テープ・レコーダーなどは全て、一般庶民の家庭に普及していた。自家用車は全国的に良く売れ、東京や大阪などの大都市では交通渋滞が発生、通勤ピーク時には車より歩く方が速い場合さえあった。1970年に大阪で開催された万博は、日本が世界の経済大国の仲間入りを果たした象徴となった。
中日の経済社会発展における極めて大きな格差を目の当たりにして、深刻なショックを受けた王氏は、「社会主義社会では経済制度が機能不全に陥るのではないか?中国はいつになったら日本に追いつけるのだろうか?」と考えた。
1980年代後半、国内の経済発展に伴い、中国製軽工業製品が日本市場にますます多く見られるようになる。それまで日本に輸出されていた中国製品といえば農・畜産・漁業製品だけという状況に変化が生じたのだ。
王氏によると、中国製アパレル製品、靴、帽子は当時、「三越」や「高島屋」など日本の一流大型店には基本的に入ることができず、「馬喰町」のような安い露天が並ぶ場所でのみ、処分品の投げ売りという感じで販売されていたという。日本の中産階級は手を出すことはなく、更にはお金持ちは一瞥すらしなかった。当時の日本人にとって、「中国製品イコール低級品」で、さらに心理的な抵抗も働き、たとえ値段が安くても買わなかった。
日本人ばかりでなく、日本に住む中国人も同様だった。彼らは「日本製」スーツを工面して購入し、中国からの輸入品を買おうとはしなかった。当時の中国製品の品質は、確かに日本製にはるか及ばないことから、これも仕方のないことだった。
「人民網日本語版」2008年11月10日
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