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改革開放と「同い年」 楊福さん
本誌記者 趙飄  ·   2018-07-23
タグ: 改革开放;北京;社会
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故郷を離れて

まさに暮らし向きがよくなりつつあった頃、楊さんの父親が重病に倒れた。父親の治療のために、楊家では前後して2000元のお金を使った。この天文学的数字は再び楊家の家計に暗い影を落とした。家の負担を軽くするため、中学卒業後、楊さんは進学をあきらめ、働いて家計を助けることを決意した。

「改革開放後、人口が大きく流動するようになり、大都市に出て働く若者がますます多くなりました。母も私が北京に出ることに賛成でした」と楊さんは話す。こうして、1995年、楊さんは17歳で初めて故郷を後にした。

北京に着いた後、楊さんは朝陽区食糧局の販売員の仕事を見つけ、そこで6年間働いた。「当時食糧局の仕事は比較的安定していたし、自分でも努力したので、収入もかなりいいものでした。働き始めて1年で5000元貯金しました」と楊さんは言う。彼にとって、北京に来てからの最初の6年は素晴らしいものだった。

2000年に入り、市場経済が急速に発展するにつれて、楊さんはあることを意識するようになる。「今の中国では、食糧問題はもう一番重要な問題ではない。食糧産業は斜陽産業になってしまうだろう」。そこで彼は数年間ためた貯金を手に、2001年に意気揚々と会社を辞め、商売を始めた。

起業の道

「今流行の言い方で言えば、『起業』ということになりますかね」。個人経営をしていた当時のことに話が及ぶと、楊さんは苦笑しながらこう言った。「でも、市場は確かに想象していたよりもずっと複雑でした」。

商売はうまくいかなかったが、幸い食糧局で働いていた頃に余暇の時間を使って電気工の知識を独学していた。楊さんはこの技術をよりどころにして、個人経営で電気取付工事を始めた。そしていつしかまた6年が過ぎた。

北京での2回目の6年で、楊さんは結婚し、自分の家庭を築いた。そしてこの時期、中国はWTOに加盟し、その後国内市場はさらに対外開放を拡大していく。

2005年8月、ダイムラー・クライスラーと北京汽車の合弁で北京ベンツ・ダイムラー・クライスラー汽車有限公司(BBDC)が北京で正式に設立された。2007年8月、同社は正式に北京ベンツ汽車有限公司(BBAC)に社名を変更した。

同じ年、電気取付工事をしていた時に一緒に仕事をした友人に勧められ、楊さんは工場立ち上げ初期で大量に社員を募集していた北京ベンツに入社し、自動車の生産労働者になった。

今年5月、楊福さん(右)は清華大学基礎工業訓練センターで北京ベンツ・清華大学「自動車製造企業イノベーション人材能力向上高級研修班」に参加した。写真は講師との記念写真。

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