中国東部にある江西省瑞金市は長征の出発地である。瑞金は中華ソビエト共和国臨時中央政府の所在地だった。
湘江の戦いは紅軍の長征が始まって以来最も苦しい戦役だった。中央紅軍は半分以上の部隊を損失し、兵士は8万6000人から3万人に減った。
烏江の川幅は120メートル、両岸が断崖絶壁である。1935年1月1日、3日間にわたる苦戦の後、毛沢東と周恩来が率いる中央紅軍は烏江を渡った。
1935年1月15~17日に行われた遵義会議は、王明の左傾した誤った中央支配を終わらせ、毛沢東を核心とする新しい指導体制を確立した。この会議は中国革命史上最も決定的な転換点と見なされている。
毛沢東は紅軍を率いて赤水を4回渡り、柔軟な戦争手段で敵の追撃を逃れた。
1935年5月、紅軍は金沙江を渡り、10万の国民党軍の追撃を逃れた。
1935年5月25日、紅軍は四川省安順場で大渡河を渡った。18人の決死隊員が船で強行渡河し、渡し場を支配下に置いた。
1935年5月、紅軍の兵士たちは、橋板が敵に外された橋を鉄の鎖をつたって渡り、瀘定橋を奪取した。
1935年6月12日、紅軍は標高4000メートルの雪山、夾金山を越える行軍を開始した。この山は紅軍が長征の過程で越えた最初の雪山であった。
1936年10月9日、紅軍第一方面軍と第四方面軍は甘粛省会寧で合流。10月22日には、紅軍第一方面軍と第二方面軍が甘粛静寧で合流した。紅軍の三大主力の甘粛での合流は長征の勝利を示すものだった。
包座戦役は紅軍第一方面軍と第四方面軍が合流した後初めて重大な勝利を収めた戦役である。紅軍は敵5000人を殲滅、または捕虜にした。
長征の道のりにおいて、臘子口は紅軍が諾爾蓋湿地を抜けて甘粛省に入る前の最後の障害であった。
直羅鎮戦役は「紅軍第一方面軍の長征における最後の戦い」と言われている。毛沢東は直羅鎮戦役を「党中央が全国革命大本営を西北部に設置するために定礎式を行った」と表現した。
1935年10月19日、紅軍第一方面軍の主力は陝西省北部にある呉起鎮に到着した。