―上海「田子坊」の総合プロデューサー呉梅森さん
本誌記者 張 靖
春雨がしとしとと降るある日の午前、上海泰康路にある弄堂(ロンタン、上海の横丁・路地のこと)で「田子坊」の総合プロデューサー、呉梅森さんに会った。この役人でもなければ「社長」にも見えない中年男性は、淡々として洒脱な印象を人に与える。呉さんと話をする中で、上海一、ひいては全国一のクリエイティブ産業パーク「田子坊」が徐々にその姿をはっきりと現してきた。

上海「田子坊」総合プロデューサーの呉梅森さん
田子坊の形成は上海の発展の必然であると同時に、偶然性を持つものでもあると言う人がいる。そうだとすると、この偶然性は呉梅森さんと大きく関わっている。かつて上海盧湾区労働組合倶楽部で働いていた呉さんは、改革開放初期の西洋留学組だ。カナダにいた5~6年の間、呉さんは西洋のアート界が古い工場の建物をアトリエに改造するやり方を非常にすばらしいと思っていた。上海に戻った後、呉梅森さんは商売に転じ、「名都蟹楼」という名のレストランを開いた。さらに上海全体のトップを切って、レストラン内に小さな陶芸サロンをオープンさせた。陶芸サロンがオープンすると、「名都蟹楼」も上海の芸術家たちが多く集まるサロンになっていった。
盧湾区泰康路210弄は道幅が2~3メートルもなく、長さもわずか420メートルしかない路地で、1930年に建設が始まり、元の名を志成坊と言う。画家の汪亜塵さん夫妻はここに新華芸術学校と芸術家協会を設立し、この路地の歴史と文化の源となった。1970年代、ここには小さな食品機械工場が集中していた。1998年、盧湾区政府はこれらの工場の改造に着手した。呉梅森さんにとって、心に長い間温めてきた夢がかなう機会がついに訪れた。呉さんはためらうことなく210弄の古い工場の所属先企業と長期賃借契約を結んだ。続いてやらなければならなかったのが、芸術家を集めることだ。話に応じて210弄に入居した最初の有名芸術家は陳逸飛さんで、相前後していくつかのアトリエを構えた。これ以降、芸術家とクリエーション会社が相次いでここに入居してきた。210弄は次第に人気が出始め、「田子坊」という新しい名前もちょっとした知名度が出てきた。
しかし、改革という大波の洗礼の中で、田子坊も消滅の危機に瀕したことがある。呉梅森さんは、自分の力だけでは古い工場をクリエイティブエリアにするという夢を危機から救うことはできず、生き残っていくためには、規模と影響を拡大しなければならないと認識するに至った。このとき、呉さんは210弄周辺の石庫門(上海の古い住居スタイル)の民家に目を向けた。
|