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中日友好の懸け橋となり続ける「戲曲」
  ·   2019-05-08  ·  ソース:人民網
タグ: 戲曲;中日友好;中日交流
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アジアの文明は多種多様で、長い歴史を誇り、各国間の交流により、文明に「化学変化」も起きている。最近、湖北省武漢で上演された上海崑劇団の創作崑曲「椅子」もその一つだ。同作品は2016年に、日本の演出家・鈴木忠志氏の招待で、アジア演出家フェスティバルにおいて、日本や韓国などの若手演出家がこの脚本を基に、それぞれ演出してみせた。中央テレビ網が報じた。

「椅子」は、中日のアーティストの協力により生まれた新しい作品と言える。実際には中国の伝統演劇・戲曲は早くから、両国のアーティストをつなぐ友誼の架け橋となってきた。

創作崑曲「椅子」は、フランスで活躍した劇作家・ウージェーヌ・イヨネスコの不条理演劇「椅子」を原作としている。約2時間の公演では、ある名も知らぬ小さな島に住む孤独な老夫婦が人生についての演説会を開き、2人は誰も座っていない椅子にむかって、滔々と演説していく。

鈴木氏は、「『椅子』は西洋演劇の不条理と東洋の絵画的描写法を融合させている。舞台美術などほとんどない中で演じられるが、中国の戲曲の役者の演技力は並外れて高い」と絶賛する。

鈴木氏は、「中国のレジェンド京劇俳優・梅蘭芳(メイ・ランファン)はアーティスト・演劇を代表する最高峰」とリスペクトする。梅蘭芳は生前、日本公演に3度出演し、日本人に京劇の魅力を伝えた。

北京戲曲評論学会の■飛会長(■は革へんに斤)は、「梅蘭芳は当時、日本全国で話題をさらった。歌舞伎役者と京劇俳優が交流を初めて以降も、みんなが梅蘭芳の表現力は素晴らしいと感じ、最終的に良い関係を築くことができた。坂東玉三郎の祖父に当たる十三代目・守田勘弥も、梅蘭芳の友人だった」と説明する。

坂東玉三郎は6歳の時に、小児麻痺を患い、後遺症のリハビリにと日本の伝統舞踊を習い始めた。子供の頃、祖父から度々京劇や梅蘭芳について聞き、家の壁には梅蘭芳の写真が貼られ、書斎には梅蘭芳に関する書籍や資料がたくさんあったという。

■飛会長によると、坂東玉三郎は20歳の時に、養父である十四代目・守田勘弥に、「今後、どのような道を歩みたいのか?」と聞かれ、「梅蘭芳のような役者になりたい」と答えたという。その後、歌舞伎役者として有名になり、日本の演劇界で人気を高めるにつれ、彼のその願いはさらに強くなっていった。そのため、当時、人気絶頂期だった1986年、北京に足を運んで、梅蘭芳の息子でやはり女形の梅葆玖を訪ね、京劇の「貴妃酔酒」の表現方法や動きを学び、「玄宗と楊貴妃」という歌舞伎作品を作った。

2007年、中国対外文化交流協会のサポートと企画の下、当時57歳だった坂東玉三郎は、崑曲「牡丹亭」の歌舞伎作品を作る計画を立てていた。しかし、江蘇省蘇州で、汪世瑜と張継青が出演する「牡丹亭」を見た後、張継青が演じる杜麗娘を一目見て魅了され、歌舞伎作品に変えるのではなく、崑曲の「牡丹亭」を学ぶことにした。

2008年3月、坂東玉三郎は蘇州崑劇院と提携して、中日版崑曲「牡丹亭」の上演を、京都南座劇場で行った。坂東玉三郎は杜麗娘を演じ、その自然な台詞、表現方法、流れるような仕草で観客を魅了し、好評を博した。その後、同作品は北京、蘇州、上海でも上演され、満員御礼の大人気となり、中日戲劇アート交流の新たな章の幕開けとなった。

2010年、上海国際博覧会が開催された際、坂東玉三郎、梅葆玖、シテ方観世流能楽師・関根祥六は、上海国際芸術祭で「楊貴妃」で共演。中国の京劇、日本の歌舞伎、能楽のコラボレーションを披露し、世界に向けてアジアの戲劇の独特の魅力をPRした。(編集KN)

「人民網日本語版」2019年5月8日

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