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日本で卓球センターを開設し「ピンポン外交」を展開する中国人
  ·   2016-10-19  ·  ソース:
タグ: 日本;卓球;中日交流
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今年のブラジル・リオデジャネイロ五輪では、福原愛選手や水谷隼選手などの日本人選手が活躍したものの、中国の選手には勝てず、卓球では中国が金メダルを総なめにした。現在、リオ五輪の余韻はもう冷めてしまったが、日本の卓球愛好者の卓球に対する情熱は、リオ五輪の日本人の成績を理由に冷めた状態になってはいない。東京大田区多摩川には「蒲田卓球センター」があり、ここでは素晴らしい卓球試合が毎日のように繰り広げられている。重慶日報が報じた。

同センターの創始者である重慶出身のトウ荻(トウは、登におおざと)さんによると、「卓球をしに来ている人は、中国の卓球に対して敬意を抱いている。ほとんどが日本人で、勝負を挑みにきたり、レベルアップを目指していたり、卓球を習いに来たりしている人たち」だ。

日本に来た日から、トウさんは得意の卓球を武器に、「ピンポン外交」を行い続けている。

江嘉良やオベ・ワルドナーとの対戦経験も

1963年生まれのトウさんは、小学生の時に卓球が好きになり、74年には、重慶市業余体育学校に特待生として入学し、卓球の練習を始めた。そして、5年生の時、重慶市の小学生卓球大会で優勝した。

78年、トウさんは、四川省体工隊に入り、全国少年卓球大会にも参加。世界チャンピョンにもなった江嘉良選手とも対戦し、団体で3位に入った。82年、スウェーデンの卓球ナショナルチームが中国を訪問した際、トウさんは中国代表として、バルセロナ五輪男子シングルス金メダリストのヤン=オベ・ワルドナー選手と対戦し、1勝1敗の成績を残した。その後、際立った成績を残していたトウさんは、四川省体工隊卓球チームの副リーダーとなった。

トウさんは当時を振り返り、「才能に恵まれていなかったのだろう。結局世界チャンピョンにはなれなかった」と話す。その後、85年に引退し、重慶に戻って、重慶大学で経済管理を学んだ。   日本で卓球センターを創設

重慶大学に通っていた間、トウさんは日本を訪問して、試合に参加したり、交流をしたりした。そして卒業後、重慶体育局で外交の仕事をするようになった。

90年、日本で、日中友好都市卓球カーニバルが開催され、トウさんは、「重慶広島チーム」のコーチとして参加した。また、広島卓球協会の招きで、東京、広島の企業や学校を訪問し、3ヶ月間の特別講義を行った。

「日本人の卓球を習う姿勢は熱い」。92年、トウさんは休職して、日本に行き、横浜国際言語学校で日本語を学んだ。同学校に通っていた2年間で、トウさんは日本の中学校3校で卓球のコーチも務めた。さらに、日本語をマスターすると、日本体育大学に入学し、スポーツ心理学を学んだ。98年に卒業してからは、日本に残り、ある会社で卓球のコーチを務めた。

「中国の卓球を日本で発揚させるためには、自分のプラットホームが必要」。会社に属している時、トウさんは、自分の理念や考え方、方法を貫くことは難しく、支持もなかなか得られないことに気付いた。「教え子から卓球場を開くように勧められ、ちょっとずつやってみようという気になった」とトウさん。

2003年、トウさんは蒲田卓球センターを東京大田区多摩川に創設。これまで、全ての精力をそこに注いで来た。中国人が開いている卓球センターという評判もあり、現地でも少しずつ知名度を上げていった。

大学の時に卓球サークルに入っていたという吉田さんは、「中国の卓球を教えてもらって、視野がとても広くなった」と話す。吉田さんは04年に、トウさんと対戦し、自分とのレベルの差を感じた。吉田さんは、トウさんの下で12年習い、コミュニティの卓球大会で2度優勝したこともある。

同センターでは、10代の学生から80代の高齢者まで、約100人が卓球を習っている。「練習や交流を通して、日本人の会員たちは中国の卓球というスポーツに、敬意を抱くようになる」とトウさん。

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