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日本の「ゆとり教育」が中国の義務教育に劣る点
  ·   2016-06-14  ·  ソース:人民網
タグ: 日本;「ゆとり教育」;中日交流
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日本テレビ(NTV)が今年4月に放送を開始した連続テレビドラマ「ゆとりですがなにか」は、「ゆとり世代(ゆとり教育の下で育ってきた若者)」3人が、仕事・家庭・恋愛・友情などさまざまなシーンで問題に直面し翻弄されつつも、自らの生活や人生に正々堂々と立ち向かっていくというストーリーだ。

「90後(1990年代生まれ)は本当にダメだ」―これは、中国では頻繁に耳にする言葉だ。「90後」特有の生育環境から、彼らは社会で特殊な位置に置かれるようになった。だが幸いなことに、「90後」は中国語の文脈においては、完全に「否定的な言葉」という訳ではなく、社会には、肯定的・否定的両方の評価がある。

「ゆとり世代」は、日本では、やや「否定的な」意味合いを持つ言葉だ。「ゆとりですがなにか」の中で、男性主人公の上司が常日頃から、「だからゆとり世代はダメなのだ」と口にしている。この台詞は、「ゆとり世代」に対する日本社会全体の評価を代弁している。

「ゆとり世代」とは何か?なぜ「1987年」なのか?彼らはどんな特徴を備えているのか?彼らを描写するのになぜ「ドラマ」が作られたのか?  ○「ゆとり世代」という言葉の誕生

1957年、旧ソ連が人類初の人工衛星を発射、欧州諸国に大きな震撼をもたらした。旧ソ連は、宇宙技術の発展で他国をリードする上でどのような優位性を備えていたのだろう?人々はその背景に、旧ソ連の難易度の高い数学教育があると考えた。そこで、欧州諸国は、ベクトルと行列の演算など難易度の高い知識を高校教育に導入することとした。数学は難しくなり、それに伴い理系の難易度もアップした。

その当時、日本も欧州諸国に倣い、高校数学の難易度を上げた。だが、ほどなくして、このような「詰め込み教育」に対して、社会から批判が寄せられるようになった。世界規模で猛烈な勢いで数学・物理学・化学各科目の難易度が上がる動きが起こると、日本社会は「このような教育方式は、ただテスト対応マシンを育てているだけで、人徳・知性・身体・審美すべてがバランスよく発展したクリエイティブな人材育成には何の役にも立っていないのではないか」と再考し始めた。

そして日本社会は、対極に向かうようになった。「負荷増加」の動きよりさらに凄まじい「負荷削減」が始まったのだ。1982年から2002年までの間に、「学習指導要綱」は3回にわたって改正された。このうち、2002年に中学校(2003年に高等学校)で実施が始まった3回目の「学習指導要綱」改訂では、主に以下のように改められた。

1 学習指導内容と授業時間を3割削減

2 「学校5日制」の完全実施

3 絶対評価制度を導入

4 「総合的な学習の時間」なる概念を新たに確立

いわゆる「ゆとり教育」とは、2002年に実施された3度目の改訂版「教育改革」を指す。前の2回の改訂と本質的に異なる点は、授業時間の削減と学校5日制の完全実施だ。授業時間の削減は、学習指導内容の削減を意味しているだけではなく、数学の計算トレーニングのための時間も大幅に削減された。

この改訂により、「ゆとり教育」を受けた学生の基礎知識が脆くなったと同時に、多くの暗記と何度も何度も繰り返す能力の向上はもはや期待できなくなった。これら2項目の改革によって被ったマイナス面は、数年経ってからだんだんと表面化し、ついには日本社会全体に「負担を減らす」ことに対する再考ムードが高まった。

○1987年:ゆとり「第一」世代

2002年、1987年4月2日以降生まれの人々が中学3年に進級した。彼らは第三次「ゆとり教育」対象者第一弾となったため、「ゆとり第一世代」と呼ばれた。

「ゆとり第一世代」+「昭和最終年生まれ」によって、彼らには最もユニークなアイデンティティが与えられると同時に、さまざまなレッテルが貼られた。これによって、ドラマの主人公たちのような自己喪失感が生まれることとなった。もともと、彼らは昭和生まれではあるが、本当の昭和生まれからは軽視され、「ゆとり第一世代」というレッテルが貼られた。後に続く「ゆとり世代」から見ると、「ゆとり第一世代」はやはり嘲笑の対象となった。平成生まれの若者の眼には、「昭和生まれ」は、「活気がない」「腐りはてた」人間に映った。

また、1987年生まれが受けた「ゆとり教育」は、完全版の「ゆとり教育」ではなかった。実施1年目であったことから、多くの地方では新しい「学習指導要綱」を徹底実施できなかった。これにより、彼らは「自分はゆとり教育を受けた」と認識することはなかった。

だが、彼らが大学を卒業するころ、日本は米国サブプライム危機が引き金となって起きたグローバル金融危機の真っただ中にいた。就職情勢は超氷河期を迎えていた。日本では、大卒生の就職市場は完全に買い手市場と化し、「就職なんていとも簡単」という大先輩の言葉とは全く正反対の状況となった。企業の採用者数は大幅に削減し、面接の難易度や選抜基準は大幅に引き上げられた。「気づけばここは『競争社会』だった」という前出のドラマの台詞そのものの世界が、まさに展開していたのだ。

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