中国人小学生を想像したあと沈黙
──「僕」が東京へ帰る日の晩、ジェイは「僕」に何本かビールをごちそうしてくれたうえ、揚げたてのフライド・ポテトをビニール袋に入れて持たせてくれます。本当に味のある「おじさん」のイメージで、村上流のセンチメンタリズムもあります。続いて『中国行きのスロウ・ボート』を紹介していただけますか。
『中国行きのスロウ・ボート』は村上が正式に発表した最初の短編小説です。のちに出された短編小説集にもこの題名がつけられています。面白いのは、彼がこの小説を何度も書き換えていることです。この物語に対する彼の特別な気持ちを見て取ることができます。物語のプロットを覚えていますか?
──何度も読んだのでもう覚えてしまいました。小さいころ、神戸に住んでいた「僕」は、中国人小学校で行われた模擬テストに参加する。大学のころ、アルバイトで一緒になった中国人の女の子との恋愛。最後に、中年を間近にした「僕」がばったり出会う高校時代の中国人の同級生。今はセールスマンとなり、「僕」に百科事典のセールストークをしつつ、人生を語る。
プロットから見ると、いくつかのやや散漫なくだりというだけなので、作品と中国人そのものとは何の関係もなく、あの3人の中国人は単に、人生の異なる段階における「僕」のシンボルだと見なす評論家が少なくありません。しかし、魯迅の『藤野先生』を参考にするなら、この2つの作品の間に微妙な関連があるのが発見できます。『藤野先生』に書かれているのは、「青春を失った」魯迅が異境の都市で誠実な恩師に背いたことの回顧です。『中国行きのスロウ・ボート』にも「僕」の中国人に対する何度かの背信が含まれています。
──それは中国人の女の子との恋愛のくだりですか?それ以外には背信の箇所は思い出せませんが……
『中国行きのスロウ・ボート』には全部で3つのテキストがあり、修正されていないものでは、小さいころの「僕」は「世界の果ての中国人小学校」で模擬テストに参加するまで暗い気持ちを抱えています。試験監督官の中国人教師は教壇で、中国と日本はお隣同士であり、努力しさえすれば、きっと仲良くなれるので、まず相手を尊敬しなければならない、と言います。
──中国人教師はまた、机に落書きしてはいけないと日本の小学生に注意し、最初のエピソードはほぼここで終わりますよね。
あなたが読んだのはたぶん全作品集版でしょう。その前に雑誌掲載版と短編小説集版の2つのテキストがあり、前の2つの版では「中国人小学校」のエピソードに続きがあるのです。高3のときの「僕」が、同じクラスのガールフレンドもあの「中国人小学校」のテストに参加していたことを発見するということが書かれています。そこで「僕」は机に落書きしたかどうか、何度も彼女に問いかけます。彼女は笑いながら思い出せないと言い、落書きしたかもしれないと答える。これはとても曖昧な答えです。それで、「僕」は彼女を家まで送って行ったあと、自分の机に落書きをする中国人の小学生を想像し、そのあと沈黙する。「僕」のこうした背信と原罪意識は第2版ではさらに深く書かれますが、第3版では完全に削除されます。その中の変化は注目に値します。
──なるほど、そういうことですか。比較してくださり、ありがとうございます。普通の読者はその中の微妙な感じを発見するのは難しいでしょう。
似たような改変は「中国人の女の子」と「中国人セールスマン」のエピソードにもあります。興味があれば、よく読んでみると、中国に対する背信と原罪がこの3つの版における共通のテーマとしてつきまとっているのを発見できます。この点について、村上作品の英訳者であるジェイ・ルービン教授も近い観点を持っています。彼は、この小説は中国に対する村上の一貫した関心と継続的な反省を暗示しており、その中から日本人にとっての中国が痛みを伴う追憶であることを見て取ることができる、としています。
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