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日本の成田国際空港が40周年 平坦ではない道のり
  ·   2018-05-23
タグ: 空港;日本経済;経済
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日本の成田国際空港は5月20日に開港40周年を迎えた。この日、空港のターミナル出発ロビーで、乗客に「40」と「Narita Airport」の文字がデザインされた記念のハンカチが配られた。空港ホームページのトップページのキャッチフレーズも「『つなぐ』成田空港。」になった。この40年を振り返ると、成田のたどってきた道のりは決して平坦ではなかった。

1960年代、日本の経済高度成長にともない、日本と世界の人と商品貿易の往来が大幅に増加し、国際航空輸送の需要もますます増大した。滑走路の整備拡充や空港の処理能力引き上げなどを求める各界の声も日に日に高まっていった。そこで当時日本で最も重要な国際空港だった羽田空港の拡張計画が議事日程に上がるようになった。

だが専門家が詳しく検討した結果、羽田の拡張は東京港の「港湾計画」や米軍の航空管制空域の影響を受けることがわかわった。こうした問題を解決しようとすると、当時の技術的条件では、空港の処理能力は20~30%しか向上しないこともわかった。そこで日本政府は首都圏周辺に新空港を建設することを決定し、その名称を暫定的に「新東京国際空港」とした。初めは千葉県の浦安町(現・浦安市)や富里町(現・富里市)など複数の候補が挙がっていたが、種々の要因を検討した結果、当時の佐藤栄作内閣は最終的に66年7月4日、候補に挙がっていなかった千葉県成田市三里塚に新空港を建設することを閣議決定した。ここを選んだ重要な要因は、政策決定者たちがこの地域は第二次世界大戦後に農民が開墾した土地であって、土地の接収が比較的容易であると考えたからだった。だがこうした「虫のいい計画」がその後、相次ぐトラブルの根本原因になるとは当時の政権にいた誰もが思わなかった。

政府は当初、空港建設は非常に順調に進むだろうと考え、周辺の住民に事前の説明を行わなかった。やがて土地の接収や建設が進むにつれて、移転、騒音、汚染など一連の問題が生じ、地元住民の間で強い不満の声が上がるようになった。住民は「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成して反対闘争を行った。当時は社会主義運動が活発に発展していた時代で、新左翼と学生もこの運動にかかわった。反対派は法的手段やデモ、時には暴力にも訴えて政府の新空港建設計画に反対した。

双方の衝突が激化し、警察と住民と間でしばしば死傷事故が発生した。政府は警備を強化して空港建設が無事行われるよう保障しなければならなかった。こうして成田は1978年5月20日、ついに開港した。政府はその後もしばらくの間は高度な警戒を緩めず、妨害事件の発生を恐れた。

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