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『知られざる「濰県収容所」』出版へ
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繆暁陽 · 2015-09-17 |
タグ: 第2次世界大戦;収容所;文化 | 印刷 |
第2次世界大戦中、日本軍が中国につくった欧米人監禁施設の実態を日本で初めて明らかにする新刊『知られざる「濰県収容所」―日本軍が中国につくった欧米人監禁施設の実態』が、ジャーナリスト安田浩一氏の執筆により、日本僑報社から刊行される運びとなった。今年11月に発売予定。
同社の段躍中編集長によると、第2次世界大戦の勃発後、米国政府が在米日系人を強制収容所に隔離したことはよく知られた事実である。しかし日本もまた、占領地域であった中国で欧米人を拘束し、「敵国人収容所」に強制収容したことはまったく知られていない。
日本は中国各地に強制収容所を設置したが、そのひとつが「濰県(ウェイシエン)収容所」である。同収容所は1942年、現在の山東省濰坊市につくられた。宣教師やビジネスマン、外国人学校の生徒など約2000人の欧米人が「敵国人」として拘禁され、自由を奪われていたのである。
収容者のなかには1924年パリ五輪の金メダリスト(陸上400メートル)のエリック・リデル(英国人)、後に米国の駐中国大使となるアーサー・フンメル・ジュニアなど、著名人も少なくなかった。
だが、収容所の存在は長きにわたり、日本において語られることはなかった。そればかりか、戦後、収容所周辺は市街地として発展を続けたこともあり、当の中国でさえ、その記憶は薄れつつあった。
そうしたなか、元収容者を中心に、いま、事実と経験を後世に伝える動きが出ている。今年8月、収容所跡地において「収容所解放70周年」の式典が行われた。これを機会に著者は現地を訪ね、日本人としては初めて、多くの収容者と関係者に取材した。
収容所のなかで、いったい何があったのか。人々は何を思ったのか。そして、どのような形で「解放」を迎えたのか。いま、知られざる「濰県収容所」の実態が本書によって明らかとなる。
「北京週報日本語版」2015年9月17日
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