明州政府が最澄に発行した「公検」、いわゆる「明牒」の複製。原版は、日本の「国宝」級文化財として、日本の比叡山延暦寺に保存されている
外国に出かける際には、出入国審査の際に、必ずパスポートとビザを携帯しなければならない。だが、パスポートやビザに関する規定がいつ頃から始まったのか、読者はご存じだろうか? 唐の時代のパスポートやビザは、一体どんな形状をしていたのだろうか?寧波博物館に入り、1100年前にタイムスリップし、唐代のパスポートとビザを見てみよう。人民網が報じた。
寧波博物館の担当者によると、古代の公文書は、「牒(ちょう)」と呼ばれていた。漢代や晋代からの伝統を受け継ぎ、旅行に出る際には、主要な関所や渡し場で、当時の役所が発行した通行許可証を提示しなければならなかった。この通行許可証は、「当所を通ることを許可する」という意味で、「過所(かしょ)」と呼ばれた。「過所」の発行申請をする際、申請者は、本人の氏名、年齢、携帯品の内容および個数、行先などが書かれた「牒文」を用意しなければならない。寧波大学の劉恒武教授は、この「牒文」の返答文書にあたる「批文」が、現代のビザに相当し、「牒文」がパスポートに相当すると補足説明をした。
寧波博物館の担当者は、次のように話した。
唐貞元19年(西暦803年)、最澄法師らが日本からの遣唐使として、明州(今の寧波)に到着した。翌年、最澄法師は明州政府に天台山巡礼を願い出た。許可が下りた後、明州や越州などを巡礼した。その後、最澄法師は日本に帰国し、中国天台宗を基礎として、日本で天台宗を開いた。最澄法師は、浙東臨海の龍興寺で密教の教えを学び、日本の仏教文化の発達と当時の社会発展に大きく貢献し、古代海上シルクロードの文化交流の証言者ともなった。(編集KM)
「人民網日本語版」2014年9月9日
浙江地域で流行した「神獣鏡」と「車馬像鏡」の影響を受け、さらに「呉地鋳鏡」職人が日本に渡来して直接製造に携わったことから、日本に極めてユニークな「三角縁神獣鏡」が誕生、広く普及した。今までに、日本で500枚以上の青銅製の「三角縁神獣鏡」が見つかっている |