「北京週報」50歳の誕生日を祝うにあたり、自然と、1963年に生まれた日本語版の45年の輝かしい歴史への麗しき思い出にとらわれてしまいました。
中日の国交がまだ回復されていなかったころ、多くの読者の方々が私たちと連絡を取り合うようになりました。その時代、連絡手段はといえば互いに交流することが唯一の手段でした。時間がたつにつれ、寄せられる手紙は増えていきます。「北京週報」を愛読していると話されたり、ある報道について論評されたり、好きな文章を紹介されたり、読後感あるいは個人としての希望や要求を語ってくださったり、意見を述べられたり、問題について解答するよう求められたり……。内容は実に様々でした。日本語版は手紙の一つひとつについて真剣に検討し、処理しました。
中国について知っていることが少ないとして、手紙のなかで回答を求める問題が非常に多岐にわたっていたり、出版物とは関係のないことまで依頼されたりする読者もいました。日本語版はこれらについても内部のこととして円滑に処理し、できるだけ読者に応えるようにしてきました。そうしたことで、読者から信頼と高い評価を得ることができました。
70年代、中日両国関係は大きな発展を遂げ、中国三誌の読者代表団の一員、あるいは個人で来訪するなど、訪中する日本の友人は急速に増えました。この有利な機会をとらえて、双方は訪問、座談会などの形で直接的な友好交流を開始しました。これを機に、日本の友人がよく「北京週報」を訪問するようになりました。今日まで、こうした一方の側の訪問という交流は、今でも非常に活発です。「北京週報」友の会代表の村上秀信氏、飯能市中国三誌読書会々長の西野長治氏、「你你会」代表幹事の西村昌夫氏、小林素氏などは何度も団を結成して北京を訪問され、「北京週報」(あるいは3誌)と交流を行っています。時には双方が、あるいは一方が大規模なレセプションを開いたこともあります。飯伊日中友好協会々長の河原直人氏なども団を率いて訪中した際、「北京週報」を訪れています。
80年代以降、宮城県日中友好協会、静岡県中国三誌普及会及び南信州新聞社などの要請を受け、わが社も前後して20数回、日本を友好訪問しています。徐克前社長や汪渓前層編集長も招待されて宮城県を訪問。総編集長を務めた耿玉馨氏、林良旗氏も前後して南信州新聞社を訪れ、この間、静岡県中国三誌普及会責任者の小林一成氏や「北京週報」友の会の運営委員から心のこもった接待を受けました。
同時に、わが社も何回にもわたり期間10日ほどの参観訪問を要請。宮城県日中友好協会々長(日中友好協会全国本部副会長)の佐々木信男氏、静岡県中国三誌普及会代表の小林一成氏及び同会メンバーの百鳥良香氏、長谷川静雄氏などが要請を受けて訪中しています。相互訪問により、私たちは日本の国情や民俗への理解をより深めることができ、こうした経験は報道の対処性を強化するうえで重要な作用を果たしました。
1984年以来、日本語版は野村客人氏や藤進満氏、桶本正夫氏、井上光一氏、大石益光氏、井上与一氏、田中誉士夫氏、安井正幸氏、後藤光正氏、関谷邦彦氏、平沢秀明氏、村上秀信氏、永田克之氏など多くの日本の友人や日中友好団体の大々的な支持、支援を受け、前後して17人を期間1年または半年の研修に派遣してきた。南信州新聞社は実践を通じて業務レベルを向上させることを強調しており、研修後、彼らは日本語版業務で中核的な存在となっています。
北京週報日本語版は01年に電子版となり、07年にはサイトを全面刷新。読者のニーズに応じて、テーマの企画に力を入れ、コラムを再設定し、ネット報道の迅速で高効率という強みを発揮することで、ホットなニュースを適時追跡すると共に、焦点となる問題をより突っ込んで報道するようになりました。サイト更新以来、アクセス数は絶えず増大しています。
北京週報社が50周年を祝うのを機に、私たちは長年にわたり日本語版を熱心に支持してくださった広範な日本の読者、友好人士、団代に対し心よりの謝意を表すと共に、双方がこれまでのように手を携えて前進し、中日友好事業に共に貢献するよう切に願っています。
「北京週報日本語版」 2008年4月 |