1957年
4月 外文出版社(現・外文局の前身)が対外宣伝のための英語版週刊誌の創刊構想を提案。中国共産党中央対外連絡部(中連部)が同意を表明、ただちに周恩来総理に指示を仰ぐ。周総理は原則として同意するとともに、外交部党委員会に当該週刊誌の編集方針を検討するよう指示。
11月18日 外交部の張聞天副部長が中連部と外文出版社の関係同志を呼び寄せ『北京週報』の編集方針について相談後、報告書「『北京週報』に関するいつくかの意見」を周総理に提出。
11月20日 陳毅副総理が「同意の意向、総理が決定」と指示。
1958年
2月9日 周総理が「北京週報(英語版)、3月1日出版決定」の指示。
3月4日 『北京週報』英語版創刊号出版。新中国成立後、初の外国語による時事政策週刊誌となる。『北京週報』の中国語誌名は郭沫若氏が揮毫。
1963年
3月4日 スペイン語版、フランス語版を出版。
3月5日 英語版創刊5周年およびスペイン語版、フランス語版創刊の祝賀パーティーに周総理、陸定一副総理が出席、周総理が「全世界人民は団結し、支持し合い、学び合い、米国を筆頭とする帝国主義に反対する闘争を進めよう」と題してスピーチ。
8月1日 日本語版を創刊。毎週火曜日出版とする。日本語版は読者から歓迎され、10月中旬までに定期購読者数が1万世帯を突破、一躍、各国語版のトップに。国内外の総発行部数は3万1000部。
1973年
6月 『人民中国』日本語版の創刊20周年および『北京週報』日本語版の創刊10周年の際に、外文局は中国外文出版代表団を組織し訪日、週報社から馮錫良、李兆田の両氏が参加。
1974年
10月8日 週報社編集部と日本語部が民族飯店で日本友好書店・読者代表団の一行14人と座談会。
1978年
10月2日 米『ニューズウィーク』東京支社長ベルナルド・クリシュナ氏が週報社訪問。中国共産党の三中全会(改革開放の開始を決めた大会)以後、初の西側記者の受け入れとなる。
1980年
5月 日本語部の劉茂芳副主任が記者として華国鋒総理の訪日に同行取材。
5月30日 日本宮城県日中友好協会の佐々木信男会長が週報社との間の人員交流関係の樹立に合意。率先して日本語部の梁淑英、姚長興両氏を招請。
11月 中央対外宣伝小組の『北京週報』編集方針改訂の指示を貫徹するため、日本語版では対日宣伝の具体的状況と結びつけた日本語版改訂版の企画案を提出。
1981年
1月5日 1981年第1期号より新たに「編集者ノート」欄を増設、これ以後、独自の評論活動を展開。
1982年
1月 日本語部に編集小組設立。「国内ニュース」欄に中日友好往来の報道を加える。
5月16日 週報社の招きに応じ、宮城県『北京週報』読者代表団の一行4名が来訪。
1983年
3月5日 創刊25周年のティーパーティーに日中友好協会副会長、宮城県日中友好協会会長の佐々木信男氏を初めとする5名の代表団が参加。
10月 日本語部の繆光禎副主任が率いる外文局三誌一店代表団が静岡県を訪問。
1984年
4月中旬 顧問の汪渓同志が宮城県日中友好協会佐々木会長の招きに応じ宮城県を訪問。
5月31日 静岡県の『北京週報』読者代表団が来訪。
9月 日本から3000人の青年が訪中し中日青年大交流の活動が展開され、週報社より2名の記者が同行取材。
1985年
1月 「経済貿易短信」欄を増設。
3月 顧問の汪渓同志の招きに応じ、宮城県日中友好協会の女性会員4名が来訪。
1986年
3月 宮城県『北京週報』読者友好訪中団の一行21名が来訪。
5月 週報社初の東京駐在員として林国本同志が赴任。日本のジャーナリズム界との幅広い関係の樹立、時宜に適ったテーマの原稿執筆、最新情報の提供、週報の普及・発行活動の促進、各界人士の刊行物に対する意見の収集などを任務とする。
11月20日 徐克氏を団長とする『北京週報』視察団が訪日。
12月1日 日本語部の繆光禎、林国本の両氏が「国家クラスの際立った貢献をなした中・青年専門家」の栄誉ある称号を授与される。
1987年
4月 福島県日中友好協会の『北京週報』読者代表団の一行18人が来訪。
1988年
3月5日 『北京週報』創刊30周年および月刊『中国とアフリカ』誌のフランス語版創刊を記念する祝賀行事を人民大会堂にて開催、李鵬総理が『北京週報』の題字を揮毫。
7月 日本周恩来記念会が中日平和友好条約締結10周年を祝うため、「北京日本語講習所」創設を発起。社会科学院と北京週報社が協力に同意、三者が北京で調印。
9月16日 北京市教育委員会が「北京日本語講習所」の開設を認可。
1989年
3月 北京日本語講習所が開校。第1期学習者は150名。日本語部副主任、同講習所常務副校長の王暁浜氏が、日本周恩来記念会主催の「北京日本語講習所開校記念会」に出席のため東京を訪問。
1991年
4月 戴延年副編集長が中国外文出版社代表団に参加し日本を視察訪問。
1992年
4月 訪日前の江沢民総書記に週報社記者が特別インタビュー、「中国の窓、世界の友」の揮毫を受ける。
10月 耿玉馨同志が長野県飯田市を訪問、南信州新聞社の創立記念活動に参加。
1994年
普及活動の一環として米、英、仏、独、伊、オーストラリア、日、カナダなどの国会議員に『北京週報』を贈呈。
1995年
5月 週報社の古い友人であり読者の高橋正六氏が率いる日本企業家代表団が訪中。
9月 抗日戦争勝利・世界反ファシスト戦争勝利50周年記念のため、3期連続で大規模な特集を組み、各国読者の反響を呼ぶ。静岡県の中国三誌普及会代表団が週報社を訪問。
11月 林良旗編集長が飯田市の招きに応じ、南信州新聞社の創立40周年祝賀活動に参加するとともに、人員交流に関して協議。
12月 施威副社長ら4名が招きに応じ静岡県など日本各地を訪問。
1996年
8月 呂洪光副社長ら2名が招きに応じ宮城県を訪問。
1997年
3月 南信州新聞社の関谷邦彦社長が週報社を訪問、両社は協力議定書に調印。
5月 中国共産党中央、中央外宣弁公室指導者による配慮のもと、日本語版のコンピュータ写植が実現、鉛活字の時代からレーザー・コンピュータの時代へと歩を進める。
2001年
1月 『北京週報』の日本語、ドイツ語、フランス語、スペイン語版が第1期号からインターネット版となる。
2月 日本の著名な雑誌『世界週報』が『北京週報』日本語ネット版の紹介文を掲載。
11月 局長事務会議の決定により、02年10月に北京週報社の記者の東京駐在業務から正式に撤退するとともに、駐在事務所の処理を局に一任。
2003年
1月3日 日本国籍の老専門家、土肥種子氏が卒寿を迎え、外文局の郭暁勇常務副局長、北京週報社の王剛毅社長、黎海波編集長、国家外国専門家局の李兵副局長が祝賀イベントに出席。土肥種子氏は1936年に来中。1945年に革命に参加、1963年に夫の土肥駒次郎氏とともに北京週報社の日本語部専門家に就任、定年退職まで勤務する。
2007年
10月 北京週報ウェブサイトが英語、中国語、日本語、フランス語、ドイツ語の各国語版の改訂版作業を順調に完了。
12月 南京大虐殺70周年記念活動をマルチメディア報道。
「北京週報日本語版」 2008年4月 |