元北京週報専家 中俣富三郎
87年、私は中国の時事週刊誌「北京週報」の「専家」として北京に招かれた。
週報社にはサイゴンで一緒だった時事OBの立花丈平君(元編集局長)がおり、あとから読売OBの関憲三郎君(元北京支局長)がやってきた。ふたりとも今は亡い。
酒好きの3人はよく飲み、酔うほどに関君が「このままゆくと、中国は世界の大きなお荷物になるね」と嘆いていた。その中国が今や「世界の工場」となり、経済大国にのし上がった。こんな変貌を、当時だれが予測できただろうか。
私は週報社や中国の友人たちとの交友が楽しく、仕事にも適度の刺激があり、こわれるままに10年も北京に住みついた。その間、あの広大な大陸のほぼ全省の名所旧跡をめぐり歩いた。96年に帰国し、その翌年の国慶節に招かれて、中日友好と中国の「現代化」に寄与したとして友誼賞を授与された。
3度目の“受難”は、4年半前に起きた。北京の“老朋友”たちに会いたくなり、北京を再訪した私は、着いた翌朝、背中に激痛を覚え、すぐ日中友好病院に運ばれた。検査の結果、心筋梗塞と分かり、日本に留学した若い医師の適切な処置で危うく一命をとりとめた。ひと月の入院中、“老朋友”たちがぞくぞく訪れ、快方に向かっている私を見て安心し、思い出話に花を咲かせた。
思えば、まことに波乱にみちた、多難な歳月だった。
「北京週報日本語版」 2008年4月 |