林国本
今年は中国の外国向け週刊誌『北京週報』の創刊50周年の年である。建国初期に、周恩来総理らの指導のもとで、当時の国際情勢、国内における建設事業の進展を背景に、まず英語版が創刊され、その後、日本語版、フランス語版、ドイツ語版、スペイン語版と次々と創刊がつづいた。
私も日本語版の創刊に参加した一人である。ジャーナリズムの分野の経験のない人たちが諸分野から集められ、ごく少数のジャーナリズムの世界で経験を積んだことのある人たちのもとで、ほとんど手づくりの状態で中国で初めての日本語時事週刊誌をつくったプロセスは、私にとってはその後の人生の核をつくる体験でもあった。何人かの日本人スタッフも、手伝ってくれた。
当時の国内状況のもとでは不可能に近いことであったが、上層部の賢明な指導者の配慮により、日本のいくつかの新聞、月刊誌、週刊誌も、きびしい外貨事情の中でちゃんとそろえてもらい、私はそれこそがむしゃらに勉強した。
ある日本人スタッフは私に著名ジャーナリスト本田勝一の『カナダ・エスキモー』などのルポルタージュを何十回も読みなさい、そして日本の新聞のコラム「天声人語」、「産経抄」などを手写してそのコツを感覚的に覚えることも、役に立つとアドバイスしてくれた。私は真剣になって、写経をするように手写に励みつづけた。それが今日の私の核となるとは思ってもいなかった。私にとって決定的なことと言ってもよいこのアドバイスをしてくれた日本人(故人)には今でも感謝している。こうした先輩、上司、日本人スタッフのアドバイスと、デッサン、スケッチに励む画家のように、私は黙々と努力を続けて、やがては日本に長期滞在する特派員となり、より広い世界で仕事をするまでになった。その間には、中国要人の訪日の際の取材、日本の天皇、皇后両陛下の訪中の取材などの仕事にも参加することができた。
第一線から退いたあとも、今日までジャーナリズムやそれに近い分野でフロンティアの開拓に努めている。北京週報での数十年は、私にとっては、自分の人生の生きがいの根幹を構築するプロセスであったと言っても過言ではない。日本のある著名な物理学者は「自分が好きて好きでたまらない趣味を仕事にできた人は、しあわせな人である」と語っている。来し方をふりかえってみると、私はそのような人間らしい。北京週報はネット版に転換してからも発展をとげている。私も側面から協力させてもらっている。中国は急速に発展をとげており、北京週報の果た役割がますます大きくなっている。北京週報のさらなる発展を心から願う。
「北京週報日本語版」2008年3月11日 |